名誉革命とジンの規制緩和
シップスミスロンドンドライジン
今回は「シップスミス」が学んだレシピのほんのすこし前、18世紀前半に、ジン暗黒の時代があったことを述べてみたい。
前回(ジン・栄光の歴史3)ではカクテルの定番、イギリス東インド会社でのジントニックの原型誕生について触れた。重商主義、帝国主義のはじまりによってジンは海軍や東インド会社の船に積み込まれて、植民地へと旅した。18世紀には海軍将校や商船の船乗りにとって不可欠なスピリッツとなった。ところが本国の事情はかなりかけ離れていたのである。
時計の針をまた少し戻す。『ジン・栄光の歴史2』で、オランダのジュネヴァがイギリスへ伝わった経緯を述べた。1688年の名誉革命。翌1689年にオランダ総督だったウィリアム3世(1650−1702)がイングランド国王として迎えられると、さらにも増してジンの国となり、蒸溜業が発展した。
旧国王ジェームズ2世がフランスに亡命すると、フランス的なものを嫌悪する風潮が生まれた。これにはウィリアム3世のブランデー輸入禁止策が影響してもいる。
ウィリアム3世はジェームズ2世の甥であり、妻のメアリー2世はジェームズ2世の娘であったのだが、ウィリアム3世にはイングランドを親オランダ側に向ける思惑があった。フランスのルイ14世によるオランダ侵略に対抗するためだった。
国王となったウィリアム3世は蒸溜酒に関する規制緩和をおこなう。手数料を支払えば誰でも製造ライセンスを取得できるようにした。ところがこれが名ばかりのジンを生む引き金になってしまう。
ジン・クレイズの時代の混合ジン
シップスミスV.J.O.P.
富裕層はオランダから輸入されたジュネヴァやしっかりとした品質の国産ジンを飲んでいた。問題は貧困層だった。
蒸溜技術が未熟な業者が増え、彼らは質の悪い安価なアルコールを入手し、ボタニカルで不快なアルコールの味わいを消すようになる。さらには手間のかかるボタニカル浸漬などしなくなる。松の樹脂から抽出したテレピン油がジュニパーベリーに似た香りだとわかると、それにさまざまなものを混ぜて偽物をつくりはじめたのだった。
平気で有害な添加物を使用することさえあった。貧困層は混合ジンという粗悪品に染まり、これにより視力を失う者や、生命を落とす人々がたくさん出てくる。混合ジンはパンやミルクよりも安価であり、水事情が悪かったために汚染された水を飲むより、と偽物ジンに手をだす。
18世紀前半の粗悪なジンと貧困層の様子はGin Craze(ジン・クレイズ/狂気のジン時代)と呼ばれている。
大きな社会問題となり何度もジン規制法が出された。1751年に6回目となる法改訂でやっと沈静化した。富裕層や海軍士官、商船の船員たちと貧困層が飲むジンの酒質は大きくかけ離れていたのである。
18世紀後半から「シップスミス」がお手本とするような正統派、高品質のロンドンドライジンを生む蒸溜業者の時代に突入していく。(『ジン・栄光の歴史5/ジン・ライムを生んだ海軍』へつづく)
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