投機目的の蒸溜所が乱立した時代
グレンフィディック12年
イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王、ヴィクトリア(在位1837−1901)の時代にスコッチウイスキーが広く流通するようになったことを、前回のシリーズ3で述べた。これまでシリーズ1~3まで読まれた方は、グレーンウイスキーやブレンデッドウイスキーの勢いだけで、モルトウイスキーはまったく駄目だったのか、モルトはブレンデッドへの貢献だけだったのか、と思われているかもしれない。
当時でもザ・マッカラン、グレンリベットなどの評価は高かったし、またラフロイグ、ボウモアといったアイラモルトは高額で取引された。さらにキンタイア半島のキャンベルタウンモルトも人気があった。1860年代以降はブレンデッドウイスキーによってスコッチが世界の酒としての道を歩むようになったのだが、実はモルトもグレーンもある意味、混沌とした時代でもあった。
ブレンデッドによるウイスキー事業の発展を見通して、モルト蒸溜所が建設されたり再建されたり、グレーンウイスキー蒸溜所にいたっては建設ラッシュだった。ただし、多くが投機目的である。設立して企業としてのベースができ、少しでも利益が出るようになると株式を売却する。蒸溜業は大きなビジネスチャンスであったのだ。粉飾決算での倒産、あるいは売却が繰り返されてゴースト化した蒸溜所がいくつもある。
つまり紆余曲折がありながらも21世紀のいま、19世紀からの蒸溜所が稼働し、19世紀からのブランドが存在しているということは大いに称えられることなのである。「ティーチャーズ ハイランド クリーム」をはじめ、現在我々は長い歴史を持つブランドを何気なく口にしているが、それらがどれだけの時代の荒波を乗り越えてきたか。
興味深いのはこうした時代背景のなか、ウィリアム・グラントのように家族のチカラだけでグレンフィディック蒸溜所を建設(1887)し、さらにはバルヴェニー蒸溜所(1892)をも建設したことだ。そして20世紀も半ばを過ぎた、「ティーチャーズ」発売(1863)からちょうど100年後の1963年、長きにわたりブレンデッド興隆がつづいている状況にもかかわらず、シングルモルト「グレンフィディック」を発売してモルト市場を開拓しはじめたことである。
まったく独自の道を歩んできたグラント家と「グレンフィディック」の歴史と業績は、もっと高く評価されるべきだとわたしは思っている。
独自の販路を生みだそうとしたモルト業界
アードモア レガシー
ブレンデッドウイスキーが海外へと販路を伸ばしていくなかで、ボウモアは1880年代にはローランドだけでなくイングランド、アイルランドに移動販売人というセールスを置き、ロンドンには支店をつくっている。そして北米にも販促を展開。水で割ったり、レモンを絞ったりといった飲み方をイメージさせるイラストを描いたポスターをカナダ市場向けに製作してもいる。
1890年代になるとボウモア以外にもグレンリベット、カリラ、スプリングバンク、ダルモアなども販売促進に力を注ぐようになった。そして海外へと進出するようになる。
一方ではブレンデッドウイスキーのモルト原酒として、ブレンダーたちは華やかな熟成感とスムースな口当たりのスペイサイドモルトを好むようになり、とくにブレンデッドへの貢献度が弱まったキャンベルタウン周辺のモルト蒸溜所は徐々に衰退していく。
そして1898年、ウィリアム・ティーチャーの息子アダム・ティーチャーがブレンド用のモルト原酒安定確保のためにアードモア蒸溜所を建設した。以来、アードモア蒸溜所が生みだす原酒は「ティーチャーズ ハイランド クリーム」のキーモルトとして貢献しつづけている。
次回シリーズ5では、19世紀末の販売促進活動について触れようと思う。ただし、毎度のことだが、また横道に逸れる可能性もあるのでご了承いただきたい。(シリーズ5につづく)
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