『伊勢物語』第八十二段“渚の院”
桜咲く山崎
前回、第1回で作家谷崎潤一郎、そして日本の本格ウイスキーづくりの創始者鳥井信治郎を紹介した。ふたりが魅せられた山崎蒸溜所建設着手の1923年(大正12年)前後の頃よりはるか昔から多くの歴史的偉人たちが山崎の地に手招きされている。
万葉と呼ばれた昔、大阪と京都の境に位置する山崎周辺は水生野(みなせの)と呼ばれ、水清く、桜、山吹、菊の花が薫り、蛍が舞い、鹿が鳴く山紫水明の里だったようだ。やがて転訛して水無瀬(みなせ)となる。
その山崎が歴史の舞台に登場するのは『日本書紀』653年。大化の改新で即位した孝徳天皇の晩年にあたり、その孝徳天皇が山崎宮という離宮を造ったとの記述がある。
東大寺をはじめ奈良の大仏建立に尽力し、仏教の布教に努めながら畿内の困窮者たちを救済する社会事業をおこなった行基は、725年、淀川に山崎橋を架けてもいる。
こうした歴史的記録とともに文学の世界にも山崎は登場する。
芳しく咲くモルトウイスキー
惟喬(これたか)親王という方がいらして、山崎の先の水無瀬に宮があり、桜の咲く頃は毎年お見えになった。いつも供をするのは右馬頭(うまのかみ/在原業平)という人だった。親王は鷹狩りにはあまり興味がないようで、酒を飲んで和歌をつくることのほうに熱心だった。そんな話の展開の中で、右馬頭なる人物がこういう歌を詠んでいる。
「世の中に たえて桜のなかりせば 春のこころはのどけからまし」
(この世に桜がなかったならば、春に咲くのを待ちどおしいとか、散ることを惜しんだりすることもなく、のどかにのんびりいられるのにな)
白州蒸溜所は40周年
40周年を迎えた白州蒸溜所
もう月も山に隠れようとする時間になって親王が酔って寝所に入ろうとすると右馬頭がこう詠む。
「あかなくに まだきも月のかくるるか 山の端にげて入れずもあらなむ」
(まだ満足いかないのに月が隠れてしまう。山の端が逃げて月を入れずにおいてほしんだけどな)
それを受けて、親王に代わって紀有常(親王の叔父、在原業平の妻の父)がこう返す。
「おしなべて 峰も平になりななむ 山の端なくば月も入らじを」
(峰々が平にならんかな。山の端がなかったら月も入ることないんだが)
こんなふうに長尻の酔人たちの様子がなんともいえずいいのだ。
こうした酔人たちが登場する歌物語の舞台となった地で、日本のウイスキーがつくられている。21世紀のいま、90年間の継承と革新を基に世界を魅了するウイスキーが誕生している。愉快ではないか。
『伊勢物語』に登場する彼らに、山崎のウイスキーを飲ませたくもある。驚きようは大変なものだろう。彼らは酔い心地をどう詠むのだろう。
さて、サントリー山崎蒸溜所は秋に90周年を迎えるのだが、サントリー白州蒸溜所は1973年2月1日に開設(竣工式は5月24日)され、40周年となる。
2月1日、40周年を祝ってシングモルトウイスキー白州を飲んでいただけると、とても嬉しい。(すべての画像/川田雅宏)
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