はじまりはフレンチワイン&コーラ
しばらくぶりに炭酸水とハイボールの話をしよう。前回の『炭酸水とハイボールの歴史4/アイスクリームとコラボ』では、19世紀後半のアメリカでソーダ・ファウンテンやアイスクリーム&ソーダが人気を高めていった様子を述べた。炭酸水の医療効果が信じられていたことと、禁酒運動の高まりが大ブームを巻き起こしたのである。薬局からソーダ・ファウンテンが展開されていったのだが、一方で南北戦争以降、薬剤師たちが“奇跡の薬”の開発を目指していた。その動きのなかで現在につづく飲料が誕生していく。それは禁酒運動の高まりが生んだものだった。
アメリカの酒文化を語る上で禁酒法は避けて通れない。コーラの発明者として知られるジョン・ペンバートンもある意味、禁酒法に翻弄された。
南北戦争(1861-1865)時、ペンバートンは南軍の軍人であったが、その後ジョージア州コロンバスで化学者、そして薬剤師として活躍した。
退役軍人の間では戦争後遺症による薬物中毒や、うつ病が増えていった。現在でいう心的外傷後ストレス障害(PTSD)である。アメリカではベトナム戦争はもとより、イラクやアフガニスタンなどに従軍した兵士たちに多くみられるものだが、南北戦争という国を二分した戦いにこころを病んだ者たちがたくさんいたのである。また女性たちのなかにも南北戦争後に神経衰弱症で苦しむものが多くいた。
ペンバートンはそういう人たちのための特効薬の開発を試みた。またコカインやカフェインの研究もつづける。彼の研究のなかで生まれたのがフランス産のワインにコカの成分の抽出物やハーブを混ぜた「フレンチワイン&コーラ」(1880年前後)だった。これを神経衰弱や胃腸、腎臓の痛みに効果があるとして、調合薬として売り出すと一大ブームを巻き起こした。
ところがすでに禁酒党が結成(1869年)されており、酒類を違法にする動きが全国で次第に高まりつつあった。ノンアルコールの代用品の開発をはじめるしかない状況に陥ったのである。
1885年にジョージア州のアトランタとフルトン郡が禁酒法を施行すると、ペンバートンは翌86年に「フレンチワイン&コーラ」を改良してソーダ水を加えたノンアルコール飲料を開発する。これが清涼飲料、コーラ(その後ペンバートンは権利を売却)のはじまりである。
キューバ・リブレのはじまり
キューバ・リブレ
日本ではあまり馴染みのないルートビア(Root Beer)は1893年に瓶詰め炭酸飲料として発売されているが、もともとは1866年、チャールズ・エルマー・ハイアーが草根木皮やハーブを材料にして開発、10年後のフィラデルフィアでの建国100年祭で紅茶に入れる粉末として発表した。これは咳止めや消炎などの薬効を期待されたものだった。
このように19世紀の間、炭酸飲料はずっと薬効があると信じられ、さまざまな材料を使い、さまざまな個性的な風味を持つブランドが誕生していったのである。
さて、このシリーズではライウイスキーベースの「ジョー・リッキー」(後にジンベースの「ジン・リッキー」が主流)や「ジン・フィズ」といった炭酸水を使ったカクテルを紹介してきた。今回はコーラを使ったスタンダードカクテル「キューバ・リブレ」を紹介しよう。これもハイボールの仲間だ。
キューバの独立を支援するアメリカとスペインの戦争時(米西戦争/1898—1902)、アメリカ陸軍大尉がハバナのアメリカン・バーで、ホワイトラムにライムジュースを絞り込んでコーラで満たすスタイルを好んでいた。簡単にいえば、ラムのコーラ割りである。
1900年8月のある夜、大尉がそのバーに顔をだすと、兵士たちがラムのコーラ割りを真似て飲みはじめる。そして皆が大尉に乾杯の発声を願った。その時に大尉が発した言葉が「Cuba Libre」(キューバの自由のために)だったといわれている。
カクテル名が決定したのがこの時であり、それ以前にはすでに飲まれていたということになる。(カクテル撮影・児玉晴希)
(『炭酸類とハイボールの歴史6/超炭酸を生むゼウス』はこちら)
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