『最後の晩餐』が見られる世界遺産
レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』1495-98年、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。人物は、左からバルトロマイ、小ヤコブ、アンデレ、ペテロ、ユダ、ヨハネ、イエス、トマス、大ヤコブ、ピリポ、マタイ、タダイ、シモン
<目次>
- 史上もっともドラマティックな瞬間「最後の晩餐」の物語
- ルネサンスの時代と『最後の晩餐』の革命
- レオナルド・ダ・ヴィンチの革新的な絵画技法
- サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の改修と『最後の晩餐』
- 『最後の晩餐』を巡る謎
- 『最後の晩餐』の見どころ・予約方法
- ミラノへの道(アクセス)
- ミラノ観光のベストシーズン
- 世界遺産基本データ&リンク
史上もっともドラマティックな瞬間
「最後の晩餐」とキリスト教の誕生
まずは『新約聖書』より「最後の晩餐」の物語を紹介しよう(以下の物語は福音書によって多少内容が異なる)。西暦30年、あるいは33年4月のある夜、イエスは過越(すぎこし)の祭の食事を12人の使徒たちと共にとろうとしていた。イエスはパンを持って言う。「これは私の身体である」。さらにブドウ酒を取ってこう告げる。「これは私の血であり、私の血で立てられる新しい契約の証である」。
これにより、エジプトのシナイ山(世界遺産)で神と預言者モーセの間で結ばれた契約(旧約)は刷新され、新たな契約(新約)が交わされた。続けてイエスは語る。「あなた方に伝えておこう。あなた方のうち、ひとりが私を裏切るだろう」。
一同は驚愕・当惑する。ペテロがヨハネに「誰のことなのか尋ねてくれ」とささやくと、ヨハネは「主よ、それは誰ですか?」と質問する。イエスは答える。「私がひと切れのパンを浸し与える者こそ、それである」。そしてイエスがイスカリオテのユダにパンを与えると、このとき魔王サタンがユダに入ったという。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。ミラノ大聖堂の刺々しいゴシックと異なり、シンプルな美しさを特徴とする
こうしてイエスは逮捕され、茨の冠をかぶり、十字架を背負ってエルサレムの町を歩いたのち、十字架に貼り付けられ、槍で脇腹を刺されて絶命する。流れたその血は地下深くに眠る最初の人間・アダムの遺体に到達し、人類の原罪を洗い清めたという。
イエスの犠牲によって神との契約は確定し、新しい時代が幕を開ける。世界最大の宗教・キリスト教の時代のはじまりである。
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ルネサンスの時代と『最後の晩餐』の革命
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の華麗なドーム装飾。右下がアプス (C) Carlo Dell'Orto
キリスト教が浸透した中世の時代、人々の生活は教会によって管理され、この世はあの世のための修行の場となり、人間の感覚や感情は著しく抑えられた。科学・芸術さえも厳しく制限されていたのである。しかし14世紀以降、ギリシア・ローマ時代のすぐれた科学・芸術を学び直し、再興する運動が広がっていく。あの世ではなくこの世で生きる者としての人間の「再生」、ルネサンスだ。
世界遺産にも登録されているシチリア島のモンレアーレ大聖堂のモザイク『最後の晩餐』。ユダはこのようにひとりだけ机の手前に描かれることが多かった
『最後の晩餐』はイエスが「ひとりが私を裏切る」と伝えたその瞬間を描いており、イエスの口はまだ閉じきっていない。12使途、特にイエスの左右にいる6人はひどく狼狽し、離れた6人の表情には「いったい何を言っているんだ?」「聞き間違えたのか?」といった困惑がありありと浮かんでおり、彼らの心の動きが手に取るように伝わってくる。
これだけドラマティックでダイナミックな表現でありながら中央に座すイエスの存在感は圧倒的で、静寂の中で全体を完全に統制している。並み外れた存在であることは一目瞭然で、見ている者まで絵の空間に引き込んで、イエスから「信仰とは何か?」と問われるのである。
レオナルドはこのシーンを言葉として、物語として人々に伝えるのではなく、このように見る者の感覚や感情を直接揺さぶろうとした。感覚や感情を抑えて神性に近づくのではなく、神から与えれたそうした能力を100%使い切ることで神に近づくというルネサンス的アプローチの究極の形と言えだろう。
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- フィレンツェ歴史地区/イタリア(ルネサンスについてはこちらを参照)
レオナルド・ダ・ヴィンチの革新的な絵画技法
修復前の『最後の晩餐』。イエスの顔の向かってやや左側にある消失点から空間が分割されている。イエスが姿勢を正せば消失点は身体の中央に来そうだ。なお、赤い丸はユダ、青い丸はヨハネ
レオナルドの原点と言えるのが「自然」だ。自然を徹底的に観察・研究して法則性を見出し、その科学的成果を芸術に適用した。「芸術は自然から生まれるものだ。だから正確に、芸術は自然の孫であると言える」。そして自然は神の造形物であるから「芸術は神の孫」ということになる。
このように、レオナルドには宗教・芸術・科学の間に区別はなかった。そんなレオナルドが発明あるいは完成させた革新的な絵画技法を紹介しよう。
■一点透視図法
20世紀に行われた『最後の晩餐』の修復で、イエスの顔のやや左側に釘を打ち込んだ跡が発見された。レオナルドはここに釘を打って消失点とし、四方に糸を張ってイエスを中心とした構図を厳密に作り上げた。
■三角構図
三角形を基本とし、三角形の組み合わせで絵を構成した。『最後の晩餐』では一点透視図法で分割された4つの三角形で空間を区切り、また中心のイエスはほぼ正三角形で描かれた。
■キアロスクーロ
色の濃淡を強調して立体感を際立たせることで、リアルかつダイナミックな描写を実現した。
■スフマート
物の輪郭線を描かずグラデーションによってぼかして周囲の空間となじませることで、自然で立体的な空間を演出した。
■空気・色彩遠近法
近くの物を大きく・ハッキリ・鮮やかに描き、遠くの物を小さく・ぼかして・淡く描くことで奥行きを強調した(空気遠近法)。また、遠くの物ほど薄く淡く青く描いたり、そうしたものを遠くに置いた(色彩遠近法)。
■テンペラ
『最後の晩餐』では壁画に用いられるフレスコではなく、絵画に使われていたテンペラの技術を転用した。フレスコは壁に漆喰を塗って乾く前に絵を描く技術で、漆喰の中に色が浸透するため汚れや傷に強い半面、短時間で仕上げなければならず、重ね塗りもできないため色が淡くなる欠点がある。
一方、テンペラは色を出す顔料に接着剤となるバインダーを混ぜた絵の具で、ルネサンス期には卵を混ぜたエッグ・テンペラが普及していた。重ね塗りできて発色もよい代わりに、カビやすく剥落しやすい欠点がある。レオナルドは作品性を重視して後者を採用した。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の改修と『最後の晩餐』
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の身廊部 (C) Messier
その後、スフォルツァ家は教会に霊廟を加え、より新しく見栄えのするものに改修するためにドナト・ブラマンテに増築を依頼した(ブラマンテは携わっていないとする説もある)。これによりルネサンス様式の巨大なドームや回廊、東側の半円形型のアプス(後陣)、聖具室などが追加された。
ソラーリの改修が完成した頃、レオナルドは芸術家ヴェロッキオが主催するフィレンツェの工房で学んでいた。特に絵の腕は図抜けており、ヴェロッキオが彼に天使を描かせたところあまりにすばらしかったため、二度と自身で絵を描くことはなかったという。こうした名声を伝え聞いたスフォルツァ家はレオナルドをミラノに呼び寄せて庇護した。
1495年、同家は付属する修道院食堂に描く絵をレオナルドに依頼した。これが『最後の晩餐』だ。絵は1498年に完成するが、先述のようにテンペラを用いたため完成直後からカビが発生し、10~20年後には剥落がはじまった。このため16~19世紀の間に何度もの修復を受けなければならなかった。
洗礼者ヨハネ礼拝堂の天井部、聖人たちのフレスコ画 (C) Carlo Dell'Orto
イタリア政府は傷ついた絵を修復し、レオナルドの絵を復活させるため、1977~99年まで20年以上にわたって修復作業を行った。絵の具を原子レベルまで分析して特定し、レオナルドのオリジナルを除く後世の加筆部分が丁寧に除去された。これが現在の『最後の晩餐』の姿だ。
[関連サイト]
- 技術情報「よみがえる最後の晩餐」CG制作(NHK公式サイト。NHKは1999年に『最後の晩餐』完成直後の姿をCGによって再現している)
『最後の晩餐』を巡る謎
上/ジャンピエトリーノ『最後の晩餐』1520年頃、ロンドン ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ。下/チェーザレ・ダ・セスト『最後の晩餐』1550年、スイス・カプリスカ サンタンブロージョ教会。いずれもレオナルドの弟子で、レオナルドの作品を模写したものと言われる(ただし、物証はない)
こうしたミステリーの多くは根拠のないもので、事実とは考えにくい。ここでは特に有名な3つの謎を紹介しておこう。
■イエスの向かって左にいる人物は誰か?
一般的にヨハネとされているが、『ダ・ヴィンチ・コード』ではマグダラのマリア(改心してイエスに帰依し、イエスの死と復活を見届けた女性)であるとして謎解きを行っている。『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」でも晩餐の際、隣にいる人物を「イエスの愛しておられた者」とし、名前を書いていないためさまざまな憶測を呼んでいる。ただ、マグダラのマリアが晩餐の場にいたことはいずれの福音書にも描かれておらず、ヨハネはどこにいるのかという新たな問題も生まれてしまう。そもそも同福音書ではヨハネの名前を一度も直接書いてはいないし、ヨハネはヒゲのない若々しい姿で描かれることが多いことからも、ヨハネと考えるのが妥当とされている。
■ナイフを持っている人物は誰か?
ユダの背中辺りに置かれている「ナイフを持つ手」がいったい誰のものなのか、周辺の損傷が激しかったこともあって特定することができず、長年議論になっていた。しかし、1999年に修復を終えた絵や、NHKが再現したCG、あるいは上のレオナルドの弟子たちが描いた模写では明らかにペテロの腕であり、違和感もない。また、ペテロはイエスが捕らえられるときにナイフで抵抗していることからも推測できる。
■ユダはイエスを裏切っていない?
ユダはひとりだけ机の手前に描かれることが多かったのに、レオナルドはユダを他の使徒の中に埋没させた。これがさまざまな憶測を呼んでいる。実は、ユダが裏切り者ではなく、むしろ最高位の使徒だったとする説は古くから存在し、たとえば遠藤周作も『イエスの生涯』の中でそのように描写している。
また、20世紀にエジプトで発見された3世紀のものと見られる『ユダの福音書』では、ユダの裏切りをイエスの指示であるとしている。『新約聖書』でもイエスは自分の運命を知っていたのにそれを阻止しようとせず、むしろユダに「今すぐなすがよい」と促している。もしかしたらユダは自己を犠牲にしてイエスのため、人類のために神に対する裏切りという最大の罪を背負ったのではないか? この説の是非はともかく、ユダは顔をほとんど描かれておらず、光も当たっていないことから、レオナルドがこの説を取ったとする根拠は薄いと考えられている。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会と
『最後の晩餐』の見どころ・予約方法
修道院食堂の内部。『最後の晩餐』は460×880センチメートルで、想像以上に大きい。上部の装飾・ユネットもレオナルドの手によるものだ
[関連サイト]
- 世界遺産の資産(Googleマップ)
- SANTA MARIA DELLE GRAZIE(教会の公式サイト。イタリア語、一部英語)
<主な見どころ>
■サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
南に位置する十字架状の建物。西側のファサード(正面)や身廊(西半分の四角い部分)部はゴシック様式で、東側のドームや半円が連なるアプス部分はルネサンス様式となっている。平日の日中、ミサやイベントがない日時であれば基本的に無料で見学することができる。
■ドメニコ会修道院
教会の北側に位置する建造物群。そのうちの一部、修道院食堂やブラマンテ聖具室、蛙の回廊などが開放されている。『最後の晩餐』やモントルファノの『イエスの磔刑図』は修道院食堂に収められている。ブラマンテの設計とされるブラマンテ聖具室では美しいフレスコ画や絵画を見学することができる。
『最後の晩餐』の対面に掲げられているジョヴァンニ・ドナート・モントルファノ『イエスの磔刑図』1497年、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。最後の晩餐の翌日、十字架に架けられたイエスの姿を描いている
修道院食堂は完全予約制となっており、30人ほどがまとまって入場するグループ見学しか認められておらず、見学時間も15分に制限されている。日によっては1~2か月前に予約が一杯になってしまうので、予定がフィックスした時点で予約しておきたい。
ただ、公式サイトで完売していても旅行代理店で予約できたり、ツアー会社が主催するツアーに参加することで見学できることも少なくない。値段は3~4倍ほどになってしまうが、予約ができなかった場合、あるいは日本語で予約したい人は代理店やツアー会社をあたってみよう。日本からツアーに参加する人は、予約はしてもらえるのか事前に確認しておこう。
■予約方法1. チケットオフィス、公式サイト
公式のチケットオフィスに電話して、あるいは公式サイトにてオンラインで予約を行う。英語・イタリア語のガイド付きツアーやオーディオガイドなども選択することができる(別料金)。下記サイトの "CENACOLO VINCIANO" が修道院食堂だ。
- Vivaticket(公式サイト。イタリア語/英語)
■予約方法2. 代理店、ツアー会社
代理店にチケットを予約してもらったり、現地ツアーに参加して見学を行う。日本人が在籍している代理店や日系のツアー会社を使えば日本語で予約ができる。一例を紹介しておこう。
- VELTRA 現地オプショナルツアー(ベルトラ公式サイトより)
ミラノへの道
蛙の回廊から見上げたサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のドームやアプス
ミラノには国際空港があり、成田からアリタリア航空が直行便を運行しているほか、ローマやパリ、アムステルダム、モスクワ、ドバイなどを経由するさまざまな便がある。格安航空券で7万円前後から。ツアーは5日間10万円前後から。
イタリア北部の主要都市から電車やバスなどでもアクセスできる。フィレンツェやジェノバから高速鉄道で2時間前後、ベネチアから2時間半前後、ローマから3~3.5時間程度。
■周辺の世界遺産
約50km圏内に「クレスピ・ダッダ」や「15~17世紀におけるベネチアの防衛施設:スタート・ダ・テラ-西スタート・ダ・マル」のベルガモの要塞都市、「イタリアのランゴバルド族:権勢の足跡[568-774年]」に含まれているヴァレーゼのサンタ・マリア・フォリス・ポルタス教会、「サン・ジョルジオ山」、「ピエモンテとロンバルディアのサクリ・モンティ」や「アルプス山系の先史時代杭上住居跡群」「ピエモンテの葡萄畑景観:ランゲ・ロエロ、モンフェッラート」の一部がある。
イタリアは世界でもっとも多くの世界遺産を有する国。ローマやフィレンツェ、ベネチア、ナポリといった主要都市も世界遺産で、それらの周辺にも複数の世界遺産がある。世界遺産をつなぐ旅を自分なりに考えてみるのもおもしろい。
ミラノのベストシーズン
蛙の回廊とブラマンテ聖具室のエントランス (C) MarkusMark
年間降水量は少なく、雨は10~11月、3~5月に多いが、多いといっても月間100mm程度で東京の春と同程度(東京の6月や9月は180mmを超える)。
冬は寒いので、一般的には春~秋がベストシーズンと言われる。
世界遺産基本データ&リンク
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のドームと身廊天井部
登録名称:レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院
Church and Dominican Convent of Santa Maria delle Grazie with “The Last Supper” by Leonardo da Vinci
国名:イタリア
登録年と登録基準:1980年、文化遺産(i)(ii)
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