松下幸之助氏の経歴

松下幸之助のリーダーシップとは?

日本を代表するグローバル企業パナソニック、創業者松下幸之助氏のDNAが現在も受け継がれている

1894年(明治27年)、和歌山県に生まれた幸之助氏。彼は丁稚奉公を経て、16歳で現在の関西電力に就職します。

そして、会社勤めを続けるには健康がすぐれなかったことと、自ら工夫・改良した電球のソケットを製造したいという思いから、1917年(大正6年)、22歳の時に独立を決意し、その翌年、大阪に松下電気器具製作所を創業しました。

そこから、改良ソケットの販売だけではなく、様々なプラグや自動車用電池ランプ、乾電池を開発し、数々のヒット商品を世に送り出しました。

後の第二次世界大戦により、軍部からの要請でやむなく民需から軍需に移行、
戦後ただちにGHQによって制限会社に指定され、幸之助以下、役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受けます。

暖簾分けの形で井植歳男氏(三洋電機の創業者)を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁する一方、1946年11月にはPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出すことで世評を高めました。

社内留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、間もなく制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰します。
 

松下幸之助氏のリーダーシップとは?彼の思想と人を活かす経営

有名な水道哲学とは、松下幸之助の語録に基づく経営哲学です。幼少期に赤貧にあえいだ幸之助が、水道の水のように低価格で良質なものを大量供給することにより、物価を低廉にし消費者の手に容易に行き渡るようにしようという思想(経営哲学)です。諸々の製品はこの思想が反映されたものです。

さて、幸之助氏の経営には、一貫して“人を活かす”という理念がありました。

病弱で休みがちだった幸之助氏は、組織を部門ごとに細分化し、徹底して仕事を他人に任せていました。有名な事業部制の原点です。
経営や組織ではあくまでも人が主人公。今も昔も本質的に変わらない。今でも松下幸之助氏の信奉者は多い。

経営や組織ではあくまでも人が主人公。今も昔も本質的に変わらない。今でも松下幸之助氏の信奉者は多い。

そのため、彼は従業員一人一人に心を砕くことを忘れませんでした。その姿勢がやがて、優秀な人材育成と繋がっていったのです。 例として、1929年(昭和4年)に発生した世界恐慌による大不況への対策が挙げられます。

当時はどの企業も、売れ行き不振、在庫急増の苦境に陥りました。しかし、従業員を一人も解雇せず、賃金も下げずに業績を立て直した企業、それが松下電器でした。

幸之助氏は、生産半減のため、工場を半日操業に転換させました。その一方で、休日を返上し、全員で在庫を売ることに決めたのです。

「自分は、将来ますます発展するつもりで事業をしている。ならば、せっかく松下に入ってもらった人たちを一時の事情で手放すのは間違った判断だ――」
こう考えた幸之助氏に迷いはありませんでした。

解雇も覚悟していた従業員たちは、その心意気に感激しました。その結果、当初は6ヶ月かかると予想されていた在庫の山を2か月で処分し、松下電器は不況を乗り切ることができました。
 

松下幸之助氏の有名な格言

最後に、幸之助氏の格言をご紹介しましょう。

「社員一人ひとりが、“社員という稼業”の経営者であれ。」

「社員稼業」とは、各々の社員が、会社に所属する単なる構成員ではなく、「社員」という名の独立した企業を営む主人公であるという自覚をもつことです。

この心構えにより、働き方も「会社に都合よく使われ搾取されている」、「与えられたことのみをやればいい」といったサラリーマン気質から脱却することができます。

何よりも“人”を大事にしていた幸之助氏は、皆に一人一人が主役となることで、仕事にやりがいが生まれ、充実した人生を送ってほしいと願っていたのでしょう。

世界的企業、パナソニック、SONY、トヨタ自動車等に共通することは、”企業は人なり”を実践していることがわかります。京セラを創業され、JALを再生した「現代の経営の神様」と称される稲盛和夫氏も同様に、人をベースに経営を考えられています。

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