コカコーラの発明者はジョン・ぺンバートン
コカ・コーラというブランドが成功した秘密とは
コカ・コーラの発明者は、1831年にジョージア州で生まれたジョン・ぺンバートン(John Penberton)である。漢方医科大学に学び卒業後にアトランタで薬局を開業する。その後、南北戦争に参加しサーベルで切られて、その傷がもとでリューマチ になる。戦後,アトランタで薬局を開くが、72年に破産。74年と78年に火災に遭い、在庫の殆どを焼いてしまった。
借金を払い終えると、新薬の開発に取り組んだ。そこそこヒットするが、彼の求める内容のものでなく、悩んでいると当時話題になっていた「奇跡の植物」コカが目に止まった。南北戦争のキズの痛みのため、モルヒネを常用していたペンバートンは、当時モルヒネ中毒を救うといわれていたコカインに関心があったのである。
偶然のヒント
ワインにコカの成分を溶かし込んだ薬用酒がヨーロッパで大ブームになっており、これを真似し、コラの実から抽出されたカフェインを加え、「フレンチ・ワイン・アンド・コカ」を開発した。これは1週間で1000杯近くも売れる大ヒット商品になった。これで順調に行きそうであったが、19世紀終盤に起こった禁酒運動により、禁酒用飲料の開発を続けることとなる。そのような中、ソーダ・ファウンテン(19世紀末のアメリカで薬局に併設され流行って入いた炭酸水売場。のみ薬や飲料水を調合して飲ませてくれた。)の店主が、ペンバートンの作った原液に水と炭酸水を間違えてお客に出してしまった。
これが好評で、後にコカコーラと言われるものを完成させるのである。この新しい炭酸飲料は1杯5セントで発売され、さらに大ヒットとなった。1886年のことである。
積極的なプロモーション展開
ユニークなデザインのボトルにも、ダイエットタイプが発売された。 |
プロモーションを積極的に展開し、初年度は原材料の半分をプロモーションに充てたそうである。巡回セールスマンをソーダファウンテンに訪問させ、無料キャンペーンの顧客リストを入手、ダイレクトメールで招待した。14万杯分のクーポンを用意、ノベルティも鏡、時計など多種準備して販促活動をしている。
1899年、キャンドラーはビン詰めの権利を譲渡を希望してきた二人の弁護士に売った。1892年に、クラウン・コルク・アンド・シール社が王冠型の栓を生み出し、従来の不完全なキャップの問題が解決された。1900年には王冠を装着する機械が普及する。ビン売り市場は急成長した。
ボトリングカンパニーを組織
コカコーラが全米に広がるにつれ、コカインの含まれた飲料への不安が大きくなった。これに対しキャンドラーは即、コカインを除去を決定した。これによって健全で美味しい飲料として消費者に受け入れられる。二人の弁護士は、ボトリングカンパニー(親ボトラー)を組織し、原液を提供し、ビン詰めをする現場ボトラーを募った。フランチャイズ・システムである。ボトラーズは消費者に一番近いところで、ビン詰め、販売をしたため、全米に広がり、農村や黒人にも愛飲者が広がった。キャンドラーは、権利を与えたことで、自ら努力しなくても全米市場を手に入れられたことになる。
ブランドイメージの強化を推進
コカ・コーラ本社は、ブランドイメージの強化を推進する。類似商標に対する法廷闘争を展開。広告も雑誌広告、屋外広告、ノベルティ広告を展開する。(この時代まだ電波媒体はない)1913年には、5万個の金属看板、100万個の紙うちわとカレンダー、200万個のソーダファウンテン用トレイ、1000万個のマッチ、2000万個の吸い取り紙、2500万個の野球カードなどのノベルティが配られたそうだ。
セールスマンの教育には積極的に取り組み、飲料の作り方や炭酸含有量のチェック方法を伝授し、訪問先での品質管理を徹底した。そのためには温度の管理も重要であり、ボトルを冷やすクーラーの開発も行っている。1930年にはクーラーの付いた自動販売機の導入を行い販路拡大が進んだ。
日本は1961年に輸入自由化がなされ、1962年には日本コカ・コーラ社が設立される。清涼飲料水として“スカッとさわやか、コカ・コーラ”のキャッチコピーで人気になった。
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