いざ歌うとなるとT君は我々に楽器のパートを口ずさむことを義務づけた。私はギターだった。パーカッションを担当させられた若いバーテンダーは、このリズムでやれと何度もダメを出された。しかも全員に、下手くそで邪魔クサイから小声でやれと命じた。えらく我がままだった。
この一杯に、不意に忘れかけていたあの日の笑顔がよみがえる。 |
ラッパーの声楽家
痺れた感覚の中で、その4、5年前に会った声楽家の錦織健氏との会話を思い出していた。ネスカフェのCFが終わり、TVのバラエティ番組にも出演するようになった頃の錦織氏である。いまから10年以上も前のことだ。その頃彼は自宅で、読書やゲームを楽しみながら、バーボンのワイルドターキーをボトルごとラッパ飲みしていると言った。「声帯によくないんじゃないか」という私の問いに、なんで、といったふうに彼はキョトンとした顔つきをしていた。
いま錦織氏がボトルからグビッのラッパーかどうかは知らない。でも記憶に残る言葉がある。
「ウイスキーのような歌い手でいたい。若い頃の錦織もよかったが、円熟してきた錦織もいい、というふうに言われたい。ウイスキーの味わいが長く寝かせるほどに深まるように、熟成していきたい」
ラッパーの声楽家はこう言ったのだ。
パララパララと合唱しながら考えた。T君が深く熟成した時、『ホテル・カリフォルニア』をどんなふうに歌い上げるのだろうかと。でもその想像はあまりにも虚しいことだと気づいた。
それからT君はそのバーへ顔を出さなくなった。おそらくすべてを断ち切ろうとしたのだろう。
T君、キミはいまもウイスキーを飲んでいるかい。私はいけない。酒場で『ホテル・カリフォルニア』が流れてくると、黙り込んでしまう。
前回の思い出トランクに詰めた酒の話『作家たちのウイスキー・タイム』もご覧いただきたい。