マンハッタンとクラブ・ウイスキー

カナディアンクラブ

カナディアンクラブ/700ml/40%/¥1,390

ウイスキーベースのカクテル、マンハッタンの3回目。カクテル12を読まれていない方は、それらをまずどうぞ。
さて、マンハッタンにカナディアンウイスキーの「カナディアンクラブ」を使用するバーテンダーも多い。
このウイスキーは1858年頃に誕生し、当初は「ウォーカーズ・クラブ・ウイスキー」と呼ばれた。1890年頃に「カナディアンクラブ」(C.C.)と改称されたのだが、クリーンで軽快な味わいとともに、クラブの名も手伝い、アメリカでは教養あるビジネスマンの酒といったイメージで大人気を博す。そしてカクテルのマンハッタンのベースとしても大いに貢献することになった。
チャーチルの母、ジェニーが1876年にカクテルのマンハッタンをマンハッタン・クラブのパーティーで供しているが、そのマンハッタン・クラブで飲まれていたウイスキーは「クラブ・ウイスキー」だった、というような文章を何かで目にしたことがある。

ハイラム・ウォーカーの「クラブ・ウイスキー」の成功は、北米でいち早く連続式蒸溜機を導入したことだろう。
1831年にアイルランド人、イニアス・コフィーが連続式蒸溜機で特許を得てから後、スピリッツに大革命が起こる。スコットランドで高品質のグレーンウイスキーの量産がはじまり、やがてブレンデッドウイスキーを生んだだけでなく、ジン、ウオツカ、ラム、テキーラといったスピリッツ製造に革命をもたらした。雑味のない洗練した酒質を生む。
アメリカに連続式蒸溜機が続々と導入されるようになったのは南北戦争終了後の1865年以降のこととなる。これによりケンタッキーのバーボンも香味に洗練が生まれている。

1892、瓶詰めマティーニ誕生

ではマティーニのベースとなるジンはといえば、連続式蒸溜機によってロンドン・ドライジンという切れ味の鋭い香味が主流となっていく。このドライジンがアメリカに渡ったのは19世紀半ば以降のこと。
さらにドライなフレンチベルモットのノイリー・プラットが製品化されたのは1855年で、アメリカに上陸したのは、それからしばらく経ってからのことといわれている。

マティーニの誕生説はさまざまにあるが、わたしはどれも信じてはいない。とくにアメリカ人。イタリア人が考案したジン&イットが基になり、マンハッタン、そしてマティーニと派生したことを認めたくないがために、とにかくマティーニはアメリカ人のもの、と言い張る。このチカラの入れようは愛国心からなのだが、その理由は次回に述べよう。
ただ1890年代に、ギブソンが生まれている。このカクテル、マティーニとの違いはパールオニオンを飾るか、オリーブを飾るかの違いでしかない。ギブソンもジンとフレンチベルモットを使う。
そして1892年にはヒューブライン社が「マンハッタン」「オールド・トムジン&ベルモット」、そして「マティーニ」(ドライジンとドライベルモット)の瓶詰めカクテルを売り出している。これは当時、新聞広告が打たれている。わたしは百年以上経った1999年に、実際その新聞広告を見る機会に恵まれてしまった。
マティーニ誕生説のひとつに、1900年、もしくは1901年にニューヨークのニッカーボッカー・ホテルのマルティニ・ディ・アルマ・ティッジャというバーテンダーがドライジンとドライベルモットの1対1のマティーニをつくり、これが史上初のドライマティーニだと書いてある文献が多数ある。まったくのホラ話である。
1890年代にはギブソンやマティーニは存在していたのだ。1対1でドライマティーニと騒いでもね。昔の説には、声高に言ったもの勝ち、のところがある。次回につづく。

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