奈落の底を打つ
妻は売春、娘は万引き。夫は愛人問題を抱えている…。なんという事態。最低の家族! だが、すべてを知っているのは自分だけだ。娘も夫も、それぞれ自分のことだけしか知らないのだ。娘がすべてを知ったとしてもまだ理解できる年齢ではない。だが、母親の売春行為、父親の愛人問題などを知ったら…。深く傷つくだろう。
夫は娘の万引き行為、妻の売春行為を知ったらどうなるだろう? 娘の万引きはまだ許せても、信じていた妻が売春をしていたと知ったら? おそらく立ち直れないほど傷つくのではないだろうか? 男というものは自分は女と浮気をしても、妻には絶対に他の男と関係することを許さないものだ。それが不特定多数の男を相手にしていたと知ったら、離婚するだけではすまないに違いない。奈美恵は呆然と、言葉を出せずにいた。夫は妻の無言にかえって不安になったようだった。「奈美恵、大丈夫か?」と顔をのぞき込んだ。娘とよく似た顔だと思った。何か言おうとして、不意に涙がこぼれた。それは急に堰を切ったように、パタパタと続いてひざの上においた両手の甲に落ちた。
奈美恵は、自分だけが知っている事情に打ちひしがれていた。めまいがするほど、最低の状態でどん底だと感じていた。暗闇の底に沈んで浮上できないような重苦しさ…。これは「奈落の底」だと思った。「奈美恵、でも、オレはよくわかった。やはり家族が一番だ。女とは別れる。もしかすると手切れ金とか言ってくるかもしれないが、とにかくこっちに戻れるように会社に頼んでみる。離れてしまえば、こっちまで追っかけてはこないだろう。恥でも、みっともなくても、正直に話したほうが会社も理解してくれると思うんだ。やっぱりオレはお前たちが大事だ。よくやってくれるお前は妻として文句がない。多分、お前ほどやってくれる女はなかなかいないだろう。子どもたちだって、まだまだこれからだ。オレはお前たちの元に戻りたい」
奈美恵は両手で顔を覆って嗚咽していた。夫は妻を抱き寄せて、「すまない」とつぶやいた。久しぶりに密着した夫の匂いを懐かしく感じながら、頭の中で必死で考えていた。宮下に声をかけられたときのように、わずかな時間に多くのことを。確かにどん底かもしれない。だが、娘は小さな万引きでかえって目が覚めて今後は大丈夫だろう。余計に口うるさく言わなかったことがよかったのだ。そして、夫もまた、奈美恵が黙っていたことで、自分で決着の道を見いだしたようだ。これもむしろ一切口出しをしないで当人にまかせるべきだろう。最悪、夫が職場を変わることになったとしても、何とかなるはずだ。自分ももっと働けばいい。奈美恵は自分のしていることを悟られないように夫に尽くしていたのだが、結果それがよかった。
そして、奈美恵自身の人に言えない過去は、封印された。もう二度としない。あるいはどこかで、半年間の“仲間”とバッタリ出会うかもしれないが、お互いに何も言うことはないだろう。客たちと会ったら? その点だけは少し気になるが、相手だってろくな事はしていないのだから、何も言えないはずだ。「ストーカー」になりそうな客はいなかったと思う。宮下のマンションのあるあのターミナル駅にはあまり近づかないようにすればいい。誰も人のことなど気にしていないものだ。偶然会うなんてそうそうあり得ないだろう。少なくとも、髪型を変えて、ファッションを変えようとは思う。
どんな事態にあってもベストを尽くす奈美恵は、現状をよく考えた。結局、奈美恵がすることは何もなかった。何もしないことがよかったのだ。夫にも責めるようなことを一言も言わなかった。責めることのできない理由が自分にあったのだが、結果が大事だった。夫はかえって妻に感謝して事態を改善することを誓った。あとは奈美恵が家のこと、家族のことをちゃんとやっていけばいい。妻として、母として、やるべきことをやる。そうしたら「負ける」ことはないはずだ。そして、それこそは自分の得意とすることだ。自分はすべてを把握して、自分のことは誰にも言わない。そうして家族の舵取りをするのが、母であり妻というものではないだろうか? (もう大丈夫。「底」を打ったら、後は上昇するだけでしょう?)。夫の腕の中で涙に濡れながら、奈美恵はなぜだかつい笑ってしまいそうだった。
※最終ページに「売春防止法」を掲載してありますので、興味のある方はご覧ください。
【連載第1回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第1回
【連載第2回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第2回
【連載第3回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第3回
【連載第4回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第4回