谷崎潤一郎の山崎散策から25年後、吉田茂が山崎蒸溜所視察
山崎の秋。淀川となる三川合流地点。左より桂川、宇治川、木津川。(撮影・川田雅宏)
山崎蒸溜所建設着手から3年後の1926年(大正15)に谷崎は山崎を訪れた。それを元に1933年(昭和8年)、山崎が舞台の『蘆刈』を発表する。作品の詳細は『山崎蒸溜所90周年(1)/谷崎文学と山崎』で語っているのでそちらをご一読いただきたいのだが、能の『蘆刈』に影響を受けた作品とされ、幻想的な物語である。また水無瀬神宮周辺や大正元年から営業をつづけているうどん屋『かぎ卯』も作中に登場し、いまの時代に読んでも親近感が湧く。
もちろん谷崎が訪れた年代との景色はかなり異なっている。マンションもあれば、淀川沿いを東海道新幹線が走っている。それでも山崎蒸溜所周辺、とくに西国街道沿いの町並みはいまものどかで鄙びた味わいがある。
このシリーズの第1回目『山崎蒸溜所100周年1/貴人たちへの分け前』から述べてきたように、山崎という地は貴人、文人たちとの縁がとても深い。谷崎もまた山崎の薄靄(うすもや)に魅了された一人であったのだ。
とはいえ、谷崎が山崎を散策した頃はまだウイスキーは誕生していない。内容的な面からは仕方のないことかもしれないが、作品に蒸溜所への言及はない。銀座や神戸のバーに影響を与えた男である。洋酒に精通していた谷崎が日本でのウイスキーづくりをどう見ていたのか。当時の大方の見解同様、日本でウイスキーなんぞできるはずもない、と冷やかな目で見つめていたのだろうか。
谷崎の山崎散策から25年後、山崎蒸溜所の立ち位置は大きく変化する。
1951年(昭和26)、スコッチウイスキーに精通していた45代首相になったばかりの吉田茂が山崎蒸溜所を訪問する。5月22日に就任して、なんと6月15日には山崎入りしている。素早い動きであった。戦後のサントリーウイスキーの伸長に着目していた。
この25年、四半世紀という年月(創業からは28年)をどう捉えるか。日本ではウイスキーは未知ともいえる酒であったこと、オーク樽での長期熟成を要する酒であること、戦争という苦難があったこと、いろいろな観点からみても驚異といえるのではなかろうか。苦闘した鳥井信治郎にしてみれば、やっと、との感慨になるかもしれないが、彼のウイスキーづくりへの執念が猛スピードで変革する激動の時代と合致して実を結んだのである。
左・トリス(1946年発売時)、右・オールド(1950年発売時)
戦前に登場した「角瓶」は困窮の時代には超贅沢品だった。「白札」(現ホワイト)、「赤札」(現レッド)も一般市民には高嶺の花であった。「トリス」が救世主となる。敗戦の失意と虚脱に沈んだ多くの人々を癒した。それまでウイスキーに馴染みのなかった人々にも受け入れられていく。
1950年。酒類の公定価格が廃止となり、やっと自由競争の時代を迎える。そこに登場したのが「サントリーオールド」である。太平洋戦争前夜に発売が見送られた幻のウイスキーが、終戦から5年後に復活した。山崎の貯蔵庫でより熟成感を深めたモルト原酒がブレンドされていた。この「オールド」はやがて神格化され、憧れのウイスキー(『6回銀座「絵里香」中村健二のジャパニーズ』参照)となる。
同じ年、トリスバーが誕生。「オールド」が神格化されるのと歩調を合わせるかのように全国にトリスバーが広がり、トリハイだけでなく多彩なカクテルを伝え、洋酒文化を花開かせることになる。
こうした動きに国は敏感だった。財政難にあった政府はウイスキーに期待を寄せる。戦後経済復興のために、酒税は国の重要な財源となる。
吉田首相の山崎蒸溜所視察は、洋酒時代の幕開けを物語っている。
さて山崎の秋を描いた谷崎潤一郎。彼は1965年(昭和40/1886—/享年79)に逝去した。戦後は長く体調を崩している。それでも物書きの目で世相をしっかりと見つめていたはずだ。
「オールド」の登場からトリスバーの興隆、“トリスを飲んでハワイに行こう”キャンペーン(1961)など、戦後の一連の動きをどう眺めていたのだろうか。
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