明治35年、日本にもソーダ・ファウンテン登場
現代のソーダ・ジャーク
今回ははじめに、ちょっとだけ日本に目を向けてみよう。
明治時代、このソーダ・ファウンテンに魅了されたひとりの日本人の男がいた。福原有信。資生堂創業者である。資生堂は1872年(明治5)に日本初の洋風調剤薬局『資生堂薬局』として誕生している。
福原は1900年のパリ万博見学をかねて欧米を視察した際に、アメリカのドラッグストアでソーダ・ファウンテンを目にする。薬局内の奥にカウンターがあり、客がそこで飲料や軽食を楽しんでいる姿を見て、薬局に寄せる信頼感、こころの癒しといったものを彼は感じ、目に焼き付けたのだった。
福原は帰国後、現在の東京・銀座中央通り、8丁目に『ソーダ・ファウンテン』(現東京銀座資生堂ビル)を開業する。1902年(明治35)のことだった。薬局の一角にソーダ水やアイスクリームの製造・販売をおこなうソーダ・ファウンテンを開設し、大きな反響を呼ぶ。のちに現在の『資生堂パーラー』へと発展し、レストランやバー部門も名声を得ることになる。
福原は薬や衛生面での新しい西洋のスタイルを紹介しながら、やがて化粧品へと事業を発展させて行ったのだが、美を追求していくなかでお洒落をして洗練された美味しいものを口にするという場を提供していった。
超炭酸ハイボールを生む進化型高機能「ゼウス」
超炭酸「ゼウス」
それから後、ソーダ・ジャーク(Soda Jerk)、あるいはソーダ・ジャーカーという仕事が人気となる。これはドラッグストア内のソーダ・ファウンテンで、ソーダ水やクリームソーダをサービスする従業員のことである。ソーダ・ジャークの名は、サーバー(接客係)がソーダ水を注ぐときにソーダ・ファウンテンのハンドル(タップ)を振る(ジャーキング/jerking)動作から生まれたものだ。
このシリーズで歴史を追ってきたが、ソーダ・ファウンテンがついに新しい職業を生むことになる。
タップをジャーキングして、専用の背の高いタンブラーにソーダ水を注ぐ。オーダーによってはそこにスプーンですくったアイスクリームを入れる。そして柄の長いソーダスプーン、そしてストローを加えてサービスする。たったそれだけのことだが、ソーダ・ジャークのサービス・コンテストも開催されたりした。チャンピオンは町のスターにもなれ、多くの若者がこの仕事に就いた。
1913年、全米ソーダ水消費量が年間4億7500万ガロン、リットル換算ならば18億リットルをも超える。1916年にはニューヨークタイムズ紙が“世界最大のソーダ・ファウンテン大国”と記事にするまでになった。 1920年から13年間にわたり禁酒法が施行されていた時代にアメリカ国民に愛された場所がソーダ・ファウンテンでもあった。それまでの酒を嗜む者が顔を出す場所ではない、といった風潮が必然的に失われていき、ハードドリンカーさえも癒しの場、一息つく場として愛したのである。
ソーダ・ファウンテンは1940年代に人気絶頂を迎えたが、第二次世界大戦後しばらくするとアイスクリーム・パーラーやファストフード店の台頭によって急速に衰退していった。
さて、ディスペンサーは素晴らしい進化を遂げている。ウイスキーの世界で見ると、角ハイボールやジムビームのビームハイボールを生みだすディスペンサーがある。ハイボールタワーとして進化してきたが、現在の花形高機能ディスペンサーは「ゼウス」。“超炭酸”でより清涼感のある美味しさを生む「ゼウス」が、飲み手に幸福をもたらしている。キーンと冷えて、高いガス圧の一杯を味わえる。
これからもさらに高機能へと進化しながら未来へとつづいていくことだろう。
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