1640年にオランダ人がスタテン島で蒸溜開始
ドライ・マティーニ
アメリカの歴史を見つめるとその一端が理解できる。アメリカではオランダジン、つまりジュネヴァが愛されていた。流れが変わったのは19世紀後半からのこと。ロンドンドライジンへの嗜好の変化、とくにカクテル「マティーニ」のドライ化がすすむとともに、禁酒法によってジュネヴァの人気は次第に衰えていった。
今回はまず、アメリカの蒸溜酒の歴史を簡単に説明しよう。
オランダ(当時ネーデルランド共和国)は1621年、北米東岸ハドソン川河口にニューネーデルランド植民地を建設した。1625年に、先住民からマンハッタン島を物々交換で得て、ニューアムステルダムとした。
植民したオランダ人は1640年、アメリカ初の蒸溜所をスタテン島に建設。ジュネヴァやブランデーなどを蒸溜したらしい。ただし、わたしはまだ納得できる資料に出会っていない。まずはグレーンスピリッツを蒸溜したのではなかろうか。ジュニパーベリーやその他のボタニカルを扱ったかどうか不明である。
スピリッツは長く医薬的効能を期待されていた。この頃は、とりあえず薬用としての目的で蒸溜したと考えられる。一方で本国からボタニカルが送られていたかもしれないし、ジュネヴァそのものも持ち込まれていたことであろう。
1664年、ニューネーデルランド植民地はイギリス(イングランド)に奪取され、今度はニューヨークとなる。この年、アメリカ北東部のイギリス植民地ニューイングランドでラムの蒸溜がおこなわれはじめたとされている。アフリカ人奴隷と結びつく、三角貿易のはじまりであった。
最初のアメリカンウイスキー、ライウイスキーの発祥は、現在のペンシルヴェニア州とメリーランド州の州境あたりの地域に移住したドイツ語圏スイス出身のメノー派教徒が蒸溜をはじめたという説がある。1600年代末とされる。
ドイツでも昔からシュナップス(蒸溜酒)がつくられていた。いまも飲まれているコルン(Korn)は小麦やライ麦を原料にする蒸溜酒であり、ドイツ語圏の人々がライ麦から酒をつくるのは自然の流れではなかろうか。
ドイツ語圏からの最初の移民の(ジャーマン・アメリカンとして包括されている)歴史的記録は1683年である。デュッセルドルフから少し離れたクレーフェルトという小さな村からクェーカー教徒の13家族がアメリカへ渡ったということだが、彼らはペンシルヴェニア州にジャーマンタウン(後にフィラデルフィア)を建設する。すぐにビールの醸造をはじめたそうだが、その後のたくさんの移民流入のなかからライウイスキーづくりがはじまったのではなかろうか。
アメリカへジュネヴァを大量輸出
さて、ジュネヴァはどうなったか。ニューアムステルダムからニューヨークに改称されても、オランダ人はイギリスの占領下に留まることができた。イギリスがオランダ人の自治を認めたからである。そして1732年までにイギリス13植民地が築きあげられていく。この頃、13植民地の酒場にはジュネヴァがかなり浸透していたといわれている。人気が高く、ジュネヴァ・クラブというニックネームで呼ばれたジュネヴァ窃盗団が生まれたほどだった。
ヨーロッパに根付いていた医薬品的なスピリッツ信仰がアメリカにもたらされていた証でもある。オランダの蒸溜メーカーによると、とくに1750年頃から1800年頃にかけてはジュネヴァをアメリカへ大量輸出していた記録が残っているという。
18世紀のイギリス本国は粗悪なジン製造や飲酒が社会問題になっていた。また産業革命の資金源となったといわれるほど、三角貿易のためのラム製造に熱心であった。ジン登場のタイミングはなかったのである。同時にアメリカでは13植民地市民の独立気運が高まっていく。
イギリスへの反感から、自分たちの酒であるライウイスキーを飲もうとする動きが生まれた。愛国心のある者はライウイスキーを飲む、という空気が生まれたのだった。
そしてジュネヴァも愛されたのである。また、北はカナダからアメリカ中西部にかけてのフランス領から流れてくるブランデーであった。アメリカが「マティーニ」を愛する国になるには長い時間が必要だった。(ジン・栄光歴史9へ)
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