輸出用ウイスキーの生産OKだったカナダ
カナディアンクラブ
それゆえ昔から、産業として、製品として、飛躍を目指そうとするならばアメリカという大市場で認められるかどうか、死活問題でもあった。その典型がカナディアンウイスキーである。アメリカという大市場で受け入れられたからこそ、今日がある。
かつての記事『CC160周年記念第5弾・アメリカの酒庫としての貢献』で述べているが、19世紀後半からライ麦風味がそよぐ軽快なタッチの「カナディアンクラブ」(C.C.)がアメリカ市場で人気が高まったことにより世界の酒となる第一歩を記す。
さらにはイギリス連邦加盟国であり、20世紀に入るとアメリカ、イギリス両国において重要度を増したのである。
19世紀末からカナダでも禁酒運動が盛んになっていた。アメリカ同様20世紀に入ってからはいくつかの州で禁酒規制が出されている。そしてアメリカよりも早く、1916年には全土で禁酒法が施行されている。ただし、法としての規制はそれぞれの州の定めに従うものであった。州によって規制基準はさまざまで、バラツキがあった。とくにフランス語圏の州での規制はゆるいものだった。加えてカナダ政府は輸出用ウイスキーの生産、輸送を認めていたのである。
第一次世界大戦(1914—1918)がはじまると、カナダの蒸溜業者は元首国イギリスのために工業用アルコールをつくらなければならなくなったが、一方で輸出用ウイスキーをつくりつづけることができた。
イギリスも大戦中さまざまな厳しい規制をおこなったが、生産量を抑え、国内消費を抑えながら、スコッチウイスキーの輸出だけはチカラを注いだ(詳しくは『100年前のウイスキー事情その1・スコッチ』を参照)。イギリスの禁酒運動にも激しいものがあったにもかかわらず、第一次世界大戦中のスコッチの輸出が国家財政を支えたことにより禁酒法にはためらいが生まれた。
終戦からまもなくの1920年、アメリカが禁酒法を施行する。カナダやイギリスにとっては、アメリカが禁酒法を施行してくれた、という皮肉な結果をもたらすことになる。
ゲームのように酒と戯れた時代
アメリカが禁酒国となってからのカナダ、イギリスの動きが興味深い。禁酒国でもあったカナダだが、輸出用ウイスキーの製造はOKだから、ガンガンつくってアメリカに輸出(密輸)した。一方、スコッチはまず禁酒国カナダに大量に密輸され、カナダからアメリカに流れていく仕組みが生まれる。
カナダとアメリカの国境線は長い。いくらでも交渉可能だし、たくさんの密輸ルートが生まれる。禁酒規制のゆるいフランス語圏のセントローレンス湾の島々に酒を入れ、そこからアメリカへ送り出す方法が最も確実だった。アメリカのギャングの駐在員もいて、島々の人口が爆発的に増えたりもした。
アメリカの海岸線は長い。どこかで引き渡しは可能だった。もうひとつの人気ルートは夜の闇に乗じて五大湖を渡ってアメリカへ運ぶ方法だった。
つまりアメリカにアル・カポネをはじめとしたギャングが台頭していったのはなんの不思議もない。生まれるべきして生まれたのである。アメリカの大衆は酒を必要とし、禁酒法下でなければ普通のビジネスをギャングがおこなっていたのである。ギャング間の抗争で多くの犠牲者を生み、一般市民が巻き添えになることもあったと語っておかなければならないが、一方で彼らは平常時の商社マンと同じであり、需要に応えようとした、との解釈も成り立つのだ。
前回記事『その3・アメリカン』でも述べているが、政府が悪い、法が悪いのである。国民は反発しながらも、法ができてしまえば一応は従う。ただし、欲に対しての抑制は効かない。それが悪法であるならば、いつしか法と戯(たわむ)れる。
どうしたら酒を入手できる。どこに酒を隠そう。スカートの中がいい。どこだったら酒が飲める。どこどこのもぐり酒場は最高だ。ジュースやなんやらで割ってカクテルにして官憲の目をごまかしちゃおう。国民がまるでゲームのように酒と戯れたのがアメリカの禁酒法時代だったのである。
イギリスにとっては、アメリカに接するカナダという連邦加盟国の動きが禁酒法制定への抑止となり、そしてイギリスはカナダを通じてアメリカの禁酒法下での社会情勢を見つめられ、禁酒法制定に踏み切ることがなかった。
100年ほど前の話である。そして禁酒法撤廃後(1933)、酒が枯渇していたアメリカ市場にすぐさま潤いを与えたのはカナディアンウイスキーであり、潤沢な資金を得たカナダ資本がスコッチの世界にも進出していったのだった。(その5・ジャパニーズにつづく)
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