20世紀初頭までアイリッシュが興隆

オーヘントッシャン12年

オーヘントッシャン12年

2回目はアイリッシュウイスキー。前回記事『100年前のウイスキー事情その1・スコッチ』では、第一次世界大戦(1914−1918)によって苦しい立場に立たされたスコッチ業界について述べた。では17世紀からイングランドの圧政に苦しめられながらも、19世紀には大英帝国の植民地やアメリカなどに輸出され、スコッチを凌ぐシェアを有していたアイリッシュウイスキーの100年前はどんな状況にあったのだろうか。
とくに19世紀半ば過ぎまではアイリッシュの天下であった。スコッチは相手にならず、蒸溜酒のライバルはフランスのブランデー(ただし一般大衆の酒はジン)だった。
アイリッシュの製法の特長に3回蒸溜がある。スコッチはローランドのモルトウイスキー蒸溜所、オーヘントッシャンはいまでも3回蒸溜をおこなっている。グラスゴーでは地元のシングルモルトとして愛されているが、オーヘントッシャン(オーヘントッシャン12年・700ml・40%・¥4,000税別)はアイリッシュの影響があったからだと言われている。
かつてローランドでは3回蒸溜でモルトウイスキーをつくるのが一般的だったようで、スコッチでありながら、第一次世界大戦頃までアイリッシュウイスキーと呼ばれていた。それほどまでにアイリッシュは影響力があったのだ。
19世紀半ば過ぎのブレンデッドウイスキー誕生からスコッチがシェアを伸ばしていったのだが、アイリッシュはモルトウイスキーにこだわりつづける。これが20世紀になり、衰退の要因のひとつとなった。
『モルト対グレーン&ブレンダー/ウイスキー裁判1』の記事でスコッチのハイランドモルト業者と協力し合い、“グレーンはウイスキーにあらず”と法廷まで持ち込んだ。しかしながら1909年、“グレーンウイスキーもウイスキーである”との裁決。ここからアイリッシュに翳りがではじめる。
 

独立とアメリカ禁酒法の影響で衰退

ターコネル

ターコネル

それでも20世紀になっても知名度は高く、禁酒法施行(1920年)前までのアメリカでは、ワット一族が生みだした「ターコネル」(700ml・43%・¥3,600税別)「イニショーウェン」「フェバリット」の3ブランドが最大のシェアを誇っていた。
第一次世界大戦の終戦翌年、1919年。イギリスからの独立のための内戦が起きる。1920年には前述のアメリカ禁酒法。ここから衰退への道を辿ることになる。
アメリカ禁酒法下では、粗悪な密造蒸溜酒に、人気のあったアイリッシュの偽ラベルが貼られて闇市場で売られ、アイリッシュのイメージ低下につながってしまう。
1922年にはアイランド自由国憲法が採択される。ここで南部26州と北部6州に分かれる。イギリスの態度はもちろん硬化する。それ以降、とくに1930年代になると互いに関税を掛け合い、ついには大英帝国の商圏から締め出されてしまう(正式な英連邦脱退は1949年。アイルランド共和国となる)。
タラモアデュー

タラモアデュー

その後の第二次世界大戦時の政策も災いした。前回その1で述べた第一次世界大戦時同様、イギリスは生産や国内消費を抑えながらも、外貨獲得のために輸出にはチカラを入れつづけた。中立の立場を貫いたアイルランド自由国は輸出全面禁止、国内供給第一の姿勢をとる。これが戦後スコッチの繁栄をもたらすことになる。
ヨーロッパ戦線でアメリカ兵たちはスコッチが飲めたのだ。戦後のアメリカでスコッチ人気が高まったのは当然のことである。
モルトウイスキーにこだわったアイリッシュから初のブレンデッドウイスキーが誕生したのは1947年のことだった。「タラモアデュー」(700ml・40%・¥2,000税別)である。(その3アメリカンの記事へ
 

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