尾崎氏が築き上げた美味の小宇宙
仄暗い店内に足を踏み入れると、バックバーの柔らかい輝きに包まれる。期待感が募る瞬間だ。 |
2階建ての一軒家。店内に入ると、とても暗い。間接照明の光度をかなり落としてある。はじめての人は驚くかもしれないが、しばらく過ごすとこの光度がいかに心を穏やかにするか知ることとなる。
そしてもうひとつ灯りがある。それは花だ。店主、尾崎浩司氏が生ける花が、季節感と華やぎ、明るさをもたらす。
パリ、ウィーン、ロンドンといった街で、こんな瀟洒な民家風のレストランに入ったような気がするのだが似て非なる店であることが今回わかった。どこにもない。それは尾崎氏が創造し築き上げた小宇宙だからだ。
バーでありながら、ここではしなやかで美しい貴婦人のようなフレンチが味わえる。美酒には極上の料理がふさわしい。ただ料理の友はワインでなくてはといった堅苦しさはない。カクテル、ウイスキー。料理に合いそうな酒を尾崎氏をはじめとしたバーテンダーに相談するといい。
¥7,350、¥10,500のコース料理以外は予約する必要はない。またカウンターでもフレンチが食べられる。ここが素晴らしい点だ。
牛ホホ肉のワイン煮(¥2,300)は人気メニュー。口中でとろける肉と深みのある味に思わず唸りたくなる。 |
美酒に上質の美しいグラスや皿、そしてフレンチを味わうために私は出かけた。カウンターでラタトゥイユと生ハム、牛ホホ肉の赤ワイン煮を食べながらシェリーの利いたグレンドロナック15年を、尾崎氏がデザインしたグラスで飲んだ。自分勝手に照れながら飲んで食べた。
尾崎氏を前にするといつも私は25歳の時の自分を思い出す。いまよりもずっとバカ者だった自分がよみがえる。そしてひとり勝手に照れてしまうのだ。
心細く、緊張した23年前
尾崎氏にはじめてお会いしたのは23年前のことになる。神宮前の『1st Radio』だった。2ndの誕生前夜であったと思う。ここで断っておくが1st、2ndといったワードが登場するが、『Radio』の歩みを語るつもりはないので説明は省略させていただく。
とにかく1stだった。撮影用のグラスでこれぞと思うものが見つからず、たどり着いたのが尾崎氏のアンティークグラスのコレクションだった。撮影も1stのカウンターでおこなうことが決まり、グラス選びを兼ねて私がひとりだけで打ち合わせに出かけたのだ。
デザイナーは非情にも「まかせる」と言う。写真家は名作『バー・ラジオのカクテルブック』のカクテル写真を撮影した大輪真之氏で、「私はほとんどのグラスを見ているので無難なものを選びそう。新鮮な目で選んでいただいたほうがいいでしょう」と逃げられてしまった。
仕方なく25歳の粗忽な駆け出しコピーライターの私が心細い思いで出かけたのだった。当時はまだバーに不慣れで、ずっしりと重い荷を背負った気分だった。(次ページへつづく)