茶の発見者?
『茶経』 |
実際に神農の業績は古代の書物に様々に記載されてます。前漢の淮南王劉安が学者を集めて編纂させた哲学書『淮南子(えなんじ)』には、「百草の滋味を嘗(な)め、一日にして七十毒に遇う」とあります。
もともと彼は姜を納める中で、多くの人々が病気に冒され苦しんでいることを見て、どうにかしなければならないと考え、山野にある様々な植物が体に効くと判断し、食べた時に体が冷えるか熱をもつか、またどんな香りや味をつけるのに適するかなどを自ら試したのです。
これが本草医学の始まりになったとも言われます。
実は、この過程で神農が喫茶の祖である逸話が登場します。
神農がこのようにして集めた食物の効能は「神農本草」にまとめられたといわれますが(実際には漢代の成立と考えられています。)、それを元に西暦500年前後に陶弘景(452-536)がまとめた『神農本草経』に「神農嘗百草、日遇七十二毒、得荼而解之」と書かれています。
つまり、神農は、百の草を自分で舐め、一日に72もの毒にあたったが、これを茶で解毒したとあります。この逸話こそが、茶の歴史上最初に出てくる逸話として登場するものなのです。
おそらく、様々な山野の植物を試したことから、茶に解毒作用があることを見つけたのも、神農の功績によるもので、いわゆる茶の発見者とも言われる所以です。このため、「茶」という言葉の発音は、「査(調べる)」からきたという説もあるほどです。なぜならば査は茶と全く同じ発音であるからです。(ちなみに茶渣という言葉は現在も使われており、茶殻を意味します。茶の良し悪しを調べることができることから、このように呼ばれています。なお、同じ茶殻を意味する「茶底」という言葉は、茶を出し切ったあとの茶殻を意味する言葉とされています。)
神農と喫茶
茶葉を食べる?! |
陸羽の『茶経』の六之飲(第七章、茶の飲み方)には「茶之為飲。発乎神農氏。聞於魯周公。」、つまり、「茶が飲料になったのは。神農氏に始まり、魯の周公の時に知られるようになった」(『茶経詳解』布目潮[シ風]著より)と書かれています。
実は、現存する記録で喫茶が神農によって始まったとするのは、この『茶経』だけです。しかし残念ながら『茶経』に記載されてるのは、「発乎神農氏」という5文字だけで、どのように喫茶をはじめたのか、どのような形態だったのかは記載されていません。
時々まことしやかに「神農が様々な草を試す事に疲れて、湯を沸かし休んでいると、一枚の茶葉が湯に落ち、かぐわしい香りがしてきたのでそれを神農が飲んで、元気が出た」というような話があります。しかし、このような伝説は全くどの書物にも見出すことが出来ないことから、陸羽の「茶之為飲。発乎神農氏。」を受けて出来た話しなのでしょう。
この神農から喫茶に結びつくまで、まだまだ多くの時間を経なければならなかったのではないでしょうか?
神農が茶葉を食べた時代から、実際に喫茶にいたるまでどのような過程があったのか、諸説ある喫茶の発祥については、今後追ってみることにしましょう。