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100年前のウイスキー事情その5・ジャパニーズ前篇(2ページ目)

今回からは日本篇。第一次世界大戦やアメリカの禁酒法の動きがありながら、日本は大正デモクラシーを謳歌していた。さて酒事情だが、ビールが大衆酒として浸透して行くなかで、本格ウイスキー製造前夜を迎えていた。

協力:サントリー
達磨 信

執筆者:達磨 信

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決断は旧トリスウイスキーだった

 
トリスウイスキー広告(1919年)

トリスウイスキー広告(1919年)


 日本に帰国した高峰は、麦芽ではなく麦麹から醪(もろみ)をつくる製法を研究。これは安価で効率よく製造できる画期的なものだった。イギリス、フランスをはじめアメリカなどで特許を取得。1890年に渡米するのだが、それはアメリカ側から実用化へ向けての研究開発依頼によるものだった。
 高峰はイリノイ州ピオリアで研究し、製造まで行き着くのだが、自分たちの権益を犯されると驚異を感じた一部蒸溜業者により研究所を焼き討ちされる。彼の研究成果はいまも、一部カナディアンウイスキー製造に応用されている。
 そういう化学者が活躍する一方で、日本ではウイスキーづくりは不可能といわれていた時代に、「赤玉」に傾注しながらも信治郎の胸には熱いものが湧いてくるのだった。なんとかつくれないものか。
 日本は輸入ウイスキーと、そして日本人のつくるアルコールに香料や薬草を混ぜたたくさんのイミテーション・ウイスキーがあった。
 信治郎も1911年(明治44)に「ヘルメスウイスキー」という混成酒をつくっている。人気になったというが、本物をつくりたい彼にとっては満足できるものではない。
 商社を通じてスコッチの文献を取り寄せ、自分なりに研究する日々を送る。そして、本格モルトウイスキー製造の決断をさせたのは、なんとひとつのイミテーション・ウイスキーだった。
 第一次世界大戦前(1914−1918)、リキュール用に買い付けておいたアルコールをワインの古樽に詰めて倉庫に置き忘れてしまっていた。何年も経って信治郎は、あかん、どうなっとるやろ、と試飲してみると深い円熟味のある味わいに変化していた。樽による熟成である。
 1919年(大正8)。これに「トリスウイスキー」と命名して売り出してみると、量が少なかったこともあるが大反響を呼び、たちまちにして完売となる。ここで信治郎の胸には日本の気候、風土でも樽での貯蔵管理を徹底すればモルトウイスキー熟成が可能だ、との確信が芽生えたのである。
 このときの「トリスウイスキー」は一瞬にして終売となってしまったが、第二次世界大戦後の1946年(昭和21)に、新たに本格ウイスキー「トリスウイスキー」として復活。戦後の人々の荒んだこころの壷を潤し、トリスバー・ブームを生み出した。さらにはアンクル・トリスのCMで話題を呼び、そして21世紀のいまも「トリス」は大衆ウイスキーの代名詞のように愛されつづけている。
 鳥井信治郎が本格ウイスキーづくりへ向けての決断をみたのは、100年ほど前のことだった。(その6・ジャパニーズ中篇につづく
 

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