第一次世界大戦による好景気

 
赤玉ポートワイン

赤玉ポートワイン


サントリー創業者(1899年鳥井商店創業、寿屋洋酒店、寿屋の名称変更を経る)鳥井信治郎(1879−1962)がいなかったら。彼がウイスキー事業の大資金源となった甘味葡萄酒「赤玉ポートワイン」(1907年発売/現赤玉スイートワイン)を生み出さなかったら。そして「トリスウイスキー」(初代1919年発売・現行トリスウイスキーは1946年より)で樽熟成を実体験していなかったら。
築かれた歴史を、たられば、で語るのは意味がない。ただ、いまを生きる人間は先人が築いた大きな土台があって生活が成り立っているということを(当たり前のことではあるが)あらためて実感させられる。
さて、前回記事の前篇では1919年の「トリスウイスキー」発売までのことを述べた。今回はその前後の時代についてお話してみよう。
1902年に締結した日英同盟によってウイスキーがたくさん輸入されるようになった。外交、軍事上の強い結びつきは産業や文化にまで影響を与えたが、1914年(—1918)にはじまった第一次世界大戦が日本に好景気をもたらした。日本海軍が日英同盟の立場から連合国側の支援のために南太平洋や地中海まで遠征するなか、輸出産業もまた伸びたのである。
「赤玉」は発売から驚異的な売り上げの伸びを見せていたところにこの好景気も追風となる。
 

100年前、大戦中にウイスキー留学へ旅立つ

 
築港工場(現大阪工場)

築港工場(現大阪工場)


1917年(大正6)には「赤玉」の主力工場としてだけでなくスピリッツやリキュールの一大生産工場、築港工場(現大阪工場の前身)を建設している。イギリスは戦中、スコッチの製造規制を厳しくした(その1スコッチ記事参照)のだが輸出は怠らなかった。信治郎はおそらくそれを知っていたことだろう。そんな動向を横目に、さらなる飛躍を目指し、商社から取り寄せたスコッチの文献で製法を学びつづけていた。
彼に限らず、明治の企業家たちは西洋への強い憧れとともに、最初は模倣からはじまるとしても、いずれは自分たちの生み出すもので西洋を凌駕してやろう、との反骨、愛国精神があった。その気概で、マッチ棒から軍艦までの製造を短期間のうちに日本人はやってのけた。
信治郎には高い関税で一般市民には手の届かない輸入酒、洋酒事情を憂えていた。「赤玉」開発時に、日本人にいかにワインを楽しんで飲んでもらえるようにするか、と苦闘したのと同様、憧れのあるウイスキーもいずれは日本人の手で、大衆に愛される本格ジャパニーズウイスキーというものを生み出し、世界へ、との強い信念があったであろう。彼の言葉に“洋酒報国”がある。洋酒をつくって、国に報(むく)いる、のである。まさに明治の男である。
ここで、たられば、になるが竹鶴政孝という人物を忘れてはいけない。彼も、いなかったら、サントリー山崎蒸溜所の初代工場長は誰に、ニッカウヰスキーは、ということになるのだが、考える必要もないことだ。幸せなことに先人たちの情熱があって、わたしたちはジャパニーズウイスキーを楽しく飲んでいる。
アルコール製造で一時代を築いていた摂津酒造の技師であった竹鶴は、阿部喜兵衛社長から命じられ、ウイスキー研究のために100年前の1918年(大正7)にスコットランドに留学する。極めて微妙なタイミングでの渡航であったことが興味深い。いまにすれば、ある意味、最後のとき、だった。
日英同盟があったから、としても第一次世界大戦の最中に何故、とも思う。竹鶴が日本を発った6月はまだヨーロッパでは戦闘が繰り広げられていた。ドイツが明らかな窮地に陥りはじめたのが9月。終戦は11月のこと。アメリカ経由で彼はイギリスに渡るのだが、長くアメリカに足止めされ、グラスゴーに落ち着いたのは1918年も年末、12月になっていた。
竹鶴は1921年(大正10)に帰国している。その年末から翌年2月にかけておこなわれた国際軍縮会議、ワシントン会議で日英同盟は幕を閉じることになる。戦後の外交駆け引きに世界が揺れ動いていた。
そして、日本が第一次世界大戦のおかげで迎えた好景気が終わるのであった。(後篇につづく)
 

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