迷 い
子どもたちが待っている |
「OK。じゃあいつでもいいから電話して。できれば3日以内に一度電話してください。気楽に遊びにいらっしゃいね」
「はぁ、でも、あの。私…」
「じゃ、ここは私が払うから」
「あ、いえ、そんな」
「いいの、いいの。大丈夫。誰にも言わないから。じゃ、電話待ってますね」
そう言って、先に店を出ていってしまった。奈美恵は一人でぼんやりと座っていた。一本の口紅を万引きしたことから、事態は思いもよらない方向に来てしまった。
(どうしよう? どうしたらいい? いや、そんな悪いことをしちゃいけない。人間として恥ずかしいことよ。でも人類最古の職業ともいうし。だけど、法律違反だわ。売春禁止法だか防止法だかの。もし万が一捕まったら、万引きどころの騒ぎじゃない。それこそ人生の破滅。でも、需要と供給か。あのオバサン、難しい言葉を言ってたけど、そんなものかも。夫の読む雑誌のHな広告で、「人妻シリーズ」なんてのも見たことがあるし。でも、見知らぬ男性と…? そんなこと考えられない…)
腕時計を見て、かなり時間が遅くなっていることに気がついた。子どもたちが先に帰っているかも知れない。すぐに自宅に電話をかけた。お菓子を食べて待っているという子どもたちにすぐに帰るからと伝えて、急いで店を出て、自転車置き場まで行こうとした。だが、ふと考えてタクシー乗り場に向かった。タクシーに乗って帰宅するのは初めてだ。千円程度の料金は、食品を買えば何品かの料理になる金額である。だが今日、万引きした口紅をお金を出して買ったと思えばいいと頭の中で自然に思った。あるいは、この先、得られるお金のことを考えたのかもしれなかった。
帰宅して、子どもたちの夕食を用意して風呂に湯も入れた。後かたづけをしながら、奈美恵はずっと考えていた。平凡な普通の家庭。普通の主婦。それを捨てる気は更々ない。だが、もう少しお金の余裕があったら…。当分、夫もいないのだし…。子どもたちの後に風呂に入ってゆっくりと体を伸ばした。もう36歳。いや、まだ36歳。色白の肌が湯の中で白く揺らめいている。自分でも悪くないと思う。まだ十分、通用するのでは? (いけない。ダメよ。そんなこと。捕まったら破滅する) 夫にバレることはないだろうか? ズキッと心が痛んで、身を縮めた。だが、夫が帰ってくるのはさらに半月後になる。
(ただお金が欲しいから? それにしても馬鹿げてる。こんなことを真剣に考えている私はおかしいのかしら? でも誰にもバレなければ…。それにお金はいくらでも欲しい。パートの仕事を減らしてもらえばいいのだし。どうせいつまでもできることじゃない。少しだけ稼いでお金を貯めれば)と、奈美恵はすでに半分その気になっていた。なぜ、たった一度会っただけの女性から持ちかけられた話がこんなにも自分の思考をとらえるのかわからなかった。いつもの日常。家事。子どもたち。夫のいない生活…。もしかすると“刺激”が”欲しいのだろうか?
誰にも話せるようなことじゃない。誰にも理解してももらえないだろう。だが、女には皆、娼婦願望がある、と何かの本で読んだことがある。「昼顔」という古いフランス映画も見たことがある。貞淑な妻が夫の知らない昼間に売春をする内容だ。だが、売春…それは、してはいけないこと、足を踏み入れてはならない禁断の世界ではないか? 翌日、朝の家事を済ませると、携帯電話を手にウロウロとリビングルームの中を動き回った。(やっぱり断ろう。これからパートの仕事に行かないと。断るにしても電話をしなければ)そして、携帯に残した「宮下」の番号をプッシュした。だがその後、奈美恵はスーパーに連絡をして、急用で仕事を休むと伝えていた。
【連載第1回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第1回
【連載第2回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第2回
【連載第3回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第3回
【連載第4回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第4回