魔が差す…
明るい化粧品店内 |
防犯監視カメラがどこにあるか確認したのだった。スーパーの仕事をするようになってから、世間には驚くほど万引きが多いことを知った。仕事場でモニタを見ることがあるので、カメラがいくつあっても必ず「死角」があることもわかっていた。頭の中で瞬時に判断してカメラに背中を向けると、見本としてパッケージから出ている新色の口紅を一本手にした。店員は気づくはずがない。ほかの何人かの客たちも誰もこちらを見ていない。
手に握りしめた口紅をごく自然に、食材の買い物袋の中に外から見えない位置にうまく落とし込んだ。奈美恵は、頭の中が真っ白になった感じがした。心臓がドキドキしている。しかしあせらずに、ゆっくりと店内を半周して、店を出た。「ありがとうございました。またお越しください」先ほどの美容部員が、笑顔でこちらに声を投げかけた。買わないのに「ありがとうございました」という習慣は好きになれない。だが、鷹揚にうなづいて買い物袋を持ち直して、通路に出た。誰も追いかけてこない。
中学生の時に、文房具店でシャープペンシルを万引きしたことがあった。見つからなかったが、それを見る度に悪事を働いたという負い目を感じたので、友だちにあげてしまっていた。それ以来、大人になってからは初めての万引きだった。子どものことを考えて、すでに奈美恵は後悔していた。(捨ててしまえばいいわよね)だが、捨てたところで、万引きの事実が消えるわけでもない。気づかぬうちに下を向いて歩いていた。
長い一瞬
ひとけの少ない化粧室前 |
「出来心で」「夫が帰ってこないので」「美容部員にバカにされたので」「生理前なので」あれこれと言い訳を一瞬のうちに考えていた。だが、どんな言い訳も通用しないことも同時にわかっていた。子どもや夫に知られたらどうしよう? せっかく築いてきたものがすべてくずれてしまうのか? 奈美恵はパニックになっていた。「すみません」と謝ってしまえばいいのだろうが、それでは万引きを認めてしまうことになる。
謝ったほうがいいのか、それともしらばっくれたほうがいいのか。パッケージに入っていない商品だから、その気になれば逃げ切れるかもしれない…。パートの仕事先でもたまに万引きした人を事務所で見かけることがある。商品を投げ出して走って逃げる人もいた。居直る人、泣き出す人、お金を出すからと叫ぶ人、さまざまだ。今、自分自身が万引きをとがめられてどう反応すべきか、奈美恵は一生懸命考えていた。
女性は、なかば笑みを浮かべて言った。「ねぇ、ちょっと一緒に来てくれません?」走って逃げることもできなくもない。だが、大声をあげられたら逃げ切れないだろう。女性に従うしかないことを理解して、視線を落としながら、奈美恵は脱力していた。買い物袋が急に、腕がちぎれそうなくらい重く感じられた。人は死ぬ直前にそれまでの人生を、一瞬のうちに思い出すと聞いたことがある。わずかな時間に信じられないくらいたくさんのことを考えながら、そんな話を思い出していた。
【連載第1回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第1回
【連載第2回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第2回
【連載第3回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第3回
【連載第4回】 人妻が落ちた真昼の奈落~第4回