ウイスキー興隆とアメリカへのサントリーウイスキー輸出開始
左より、発売時の「サントリーローヤル」/輸出用「サントリーオールド」ラベル(1962年)
まずは1960年にサントリー(当時は寿屋/1963年、ウイスキーのブランド名サントリーに社名変更)創業60周年記念として「サントリーローヤル」(『サントリーローヤル/甘く華やかなコク、不朽の名作』記事参照)が誕生した。これは日本でのウイスキーづくりの創始者、鳥井信治郎の遺作、最後の作品となった。
そしてトリスのハワイキャンペーンが盛り上がりを見せた1961年は日本のウイスキー史にとって記念すべき年でもある。
サントリーウイスキーがジャパニーズウイスキーとしてアメリカで初のラベル登録の承認を得たのだった。スコッチ、アイリッシュ、カナディアンなど世界的に名高いウイスキーと対等の立場で輸出できるようになったのである。
翌1962年、アメリカでのラベル登録承認を見届け、鳥井信治郎逝去。享年83歳。この年から「ローヤル」「オールド」(上部画像、輸出用ラベル参照)「角瓶」などがアメリカへ輸出されていくようになる。
60年代は日本が大きな転換点を迎えた象徴的な時代だった。敗戦からの復興が進む。世界の先進国への仲間入りを目指して、大きく発展していった。
何よりも1964年に東京オリンピックを開催、成功させるという大きな目標があった。東京を中心に高速道路、東海道新幹線、さらには数々のホテルの建設などによって、近代的な都市化が顕著になる。
一般市民の生活環境も変貌していく。団地族、テレビ、洗濯機、冷蔵庫などの家電製品をはじめとして、これまでとは異なる暮らしのシーンが生まれていく。
そんななか、東京オリンピック開催の年に登場したのがジャスト500円、経済的価格で家庭での晩酌ウイスキーとしての地位を獲得することになる「サントリーレッド」(1930年発売「赤札」をリニューアル/『サントリーレッド、元祖家飲みウイスキーのススメ』記事参照)だった。それまで大多数のお父さんが家庭では清酒かビールであったのだが、トリスバーの勢いもあり、「レッド」が大きなブームを呼ぶ。ウイスキーが家庭に浸透するきっかけとなり、身近な存在となっていく。
1970年代はじめまで、「レッド」がウイスキー市場を牽引することになる。
この間、1967年には所得倍増計画を達成し、翌68年には国民総生産(GNP)が日本と同様の敗戦国、西ドイツ(当時)を抜き、アメリカに次いで世界第2位となる。経済大国としての地位を獲得したのだった。1955年頃から1973年頃まで、日本は高度経済成長期と呼ばれる時代である。ウイスキーの伸長、浸透はこの成長期とともにあったといえる。
そして1969年、サントリー創業70周年を記念して「サントリーリザーブ」(『サントリーリザーブ・ハイボールに香る白州モルト』記事参照)が誕生した。
さらには誰もが日本は豊かになったと実感できるようになった1970年代、それまで高嶺の花、神格化されてきた「サントリーオールド」が手に届くウイスキーとなり、レッドに代わり大スターとなっていったのである。(『山崎蒸溜所100周年14/1970年代ホワイトスピリッツ・ブームを凌駕したオールド』はこちら)
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