麦ばかり喰う怪物ウスケの住処
山崎蒸溜所、大麦貯蔵庫(1929年)
日本初の本格モルトウイスキー蒸溜所、山崎蒸溜所の建設がはじまったのは1923年のこと。今年ちょうど100年を迎えた。翌1924年から仕込み、蒸溜が開始された訳だが、当初、近隣住民にとっては不思議な建物だったようだ。
何かを製造している工場のようだが、製品というものが出荷されているようではない。双頭のキルン(麦芽乾燥塔)から煙ばかり立ちのぼっている。
現JRの山崎駅から蒸溜所まで、大量の俵を積んだ牛車の長い列が連なりつづけたりもする。原料である大麦の搬入であった。
ウイスキーというアルコール飲料の認知がまったくない時代だった。一般市民のなかにはウイスキーという名の酒があると知っているものはいただろう。それでも口にした人はほとんどいなかったといえるだろう。未知の酒と言っても大袈裟ではなかったはずだ。当時、高額な舶来の洋酒(輸入酒)を口にできる人は限られていた。
何年経っても製品が生まれない。年月を要する樽での貯蔵熟成という工程など知る由もない。近隣住民は「あそこには麦ばかり喰う、怪物ウスケが棲んでいる」と噂し合ったという。これが100年ほど前の状況であった。
鳥井信治郎に想いを馳せるとき、需要のまったくない時代に何故ウイスキーづくりへ挑戦したのか、このことがずっとわたしのアタマのなかから離れない。誰もが無謀と決めつけるなかで突きすすんでいった彼の気魄は想像を絶する。先人たちが信治郎についてたくさんのエピソードを語り遺しているが、それだけでは彼のこころの奥底を見つめることはできない。安易には語れない。
同時に先見の明である。なんという特別な、いや特異な地を選んでくれたのか。日本初の本格モルトウイスキー蒸溜所が山崎であったことをウイスキーファンは感謝しなければならない。
屈指の名水の里(『山崎蒸溜所100周年4/名水が生むモルトウイスキー』参照)、樽での貯蔵熟成に最適な環境(『山崎蒸溜所100周年3/湿潤で美しい水郷地帯』参照)であることはもちろん、もうひとつ、やはり流通、東海道本線山崎駅の存在も大きい。
前述した大麦の搬入、そして製品出荷。モータリゼーションの発達をみない時代、大阪以西、京都以東への流通は鉄道に頼るしかない。ウイスキーづくりにふさわしい地の間近に東海道本線山崎駅があったのだ。驚異の立地といえよう。
ちなみに山崎駅開業は1876年(明治9年/新橋—横浜間の開通は1872年)、廃刀令が発布された年である。そして翌年は西南戦争が勃発。まだまだ動乱の時代だった。
スコッチもバーボンも鉄道ありきだった
ウイスキーの歴史をみれば、スコッチウイスキーもバーボンウイスキーも鉄道網の伸長があったからこそ急激な興隆へとつながった。ウイスキー流通史のなかで鉄道との関連を探ると、スコットランドにおいてはエディンバラとグラスゴーが鉄道で結ばれたのが1842年。エディンバラからハイランドのインヴァネスまで鉄道が開通したのが1863年。鉄道の発達がハイランドのモルトウイスキーの輸送を容易にし、またローランドのグレーンウイスキーと結びつき、ブレンデッドウイスキーの興隆へとつながった(『ティーチャーズの歩みから探るブレンデッドの歴史3』参照)。
アメリカでは南北戦争(1861-1865)がバーボン伸長のきっかけでもあった(『ティーチャーズの歩みから探るブレンデッドの歴史5』参照)。世界の戦史史上初の鉄道輸送が関わった戦いだったが、ここからケンタッキーのバーボンが広く流通するようになる。それまでは東部のライウイスキー全盛であった。
日本のウイスキー史を語る上でも、山崎駅が、鉄道が、山崎蒸溜所に果たした役割は大きい。
すでに山崎駅から大麦が運ばれるシーンはなくなっているが、いまは蒸溜所への多くの見学者に利用されつづけている。
(2023年11月1日より一般見学再開。予約、応募に関しては山崎蒸溜所サイトへ)。
鳥井信治郎の慧眼(けいがん)に畏敬の念を抱く。
(『山崎蒸溜所100周年8/文豪・谷崎潤一郎と45代首相・吉田茂の山崎』はこちら)
左・山崎蒸溜所麦芽乾燥塔(1937年頃)。右・現JR山崎駅
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