歌に詠まれたウイスキーの故郷
左・水無瀬神宮/右・旧西国街道にある芭蕉の句碑(撮影・川田雅宏)
1488年、後鳥羽上皇(1180-1239年3月28日没/延応元年2月22日)二百五十回忌の年、1月22日の月命日に“水無瀬三吟百韻”が山崎の水無瀬離宮跡でおこなわれた。
連歌師の宗祇(そうぎ/1421-1502)、その弟子の肖柏(しょうはく/1443-1527)、宗長(そうちょう/1448-1532)の三人が後鳥羽上皇慰霊のために連歌百句を詠み、御影堂(現・水無瀬神宮)に奉納したものである。
宗祇の発句は“雪ながら山本かすむ夕(ゆうべ)かな”である。これは新古今和歌集(1210年から4年の間に完成といわれている)に収められた後鳥羽上皇が詠んだ“見渡せば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋と何思ひけむ”を踏まえたものだった。(後鳥羽上皇と水無瀬神宮に関しては『山崎蒸溜所100周年4/名水が生むモルトウイスキー』に詳細)
この連歌師たちとも親交があったひとりに、俳諧の祖といわれている山崎宗鑑(誕生年不明、1400年代半ば過ぎ。1540年没)がいる。宗鑑は立派な武士で九代将軍足利義尚の家臣だった。ところが主君の死により剃髪して、山崎の地に暮らすようになったらしい。
そして繁栄していた山崎の油座(『山崎蒸溜所100周年5/ウイスキーとエゴマ油発祥地』参照)を支える神人たちの後ろ盾もあり、連歌講の中心的な人物となっていった。少年期に一休和尚(一休さん)と交流があったことから機知に富み、反骨精神も養われていたようで、次第に保守的な高尚さよりも俗語を使ったユーモアのある俳諧へと傾斜していった。晩年に『新撰犬筑波集』を編纂し、俳諧独立の祖としての評価を得るようになる。
JR山崎駅の東(京都側)、宝寺(宝積寺)踏切の北側の天王山登り口に宗鑑の句碑がある。“うずききてねぶとに鳴や郭公”という句で、卯月が来て根太(腫瘍のこと)が疼いて泣いているホトトギス、ということなのだが実は裏の意味がある。これは宗鑑とともに俳諧の祖とされている知友であった伊勢神官、荒木田守武が根太にかかり泣かされていることをからかったものだとされる。
さて、俳聖・松尾芭蕉(1644-1694)が1688年、明石で『笈の小文』の旅を終えた帰りに山崎を訪れている。俳諧の祖が暮らした地を表敬訪問したのだった。このとき芭蕉は“ありがたき姿おがまむむ杜若”と詠んでいる。現在、JR山崎駅から山崎蒸溜所に向かう旧西国街道の道の途中に句碑がある。
この句は宗鑑生前のひとつのエピソードから生まれたものだ。宗鑑が宗長とともに三条西実隆卿(1455-1537/公卿・内大臣)を訪ねた際、杜若(かきつばた)を折って献じたという。痩せてみすぼらしい姿をした宗鑑を見た卿は“手に持てる姿を見れば餓鬼つばた”と詠んだ。芭蕉はこのエピソードから、宗鑑の名誉のために、また俳諧が世に広まるベースを築いた偉人への敬意を込めて、「ありがたき姿おがまむ」と詠んだのだった。
よく知られている宗鑑の句がある。“風寒し破れ障子の神無月”である。破れ障子とは、紙がない、神がない、それと神無月をかけたもので、遊びごころにあふれている。
今年は山崎蒸溜所100周年。100周年記念ラベルが登場しているが、「シングルモルトウイスキー山崎」にも遊びごころがある。「山崎」は1984年発売で、ラベルの山崎の書は当時のサントリー社長、佐治敬三(『父の日ウイスキー/息子に託すブレンダー魂』参照)の手によるものだ。
崎のつくりをご覧いただきたい。山に奇ではなく、寿の字を崩して奇に似せてある。社名がウイスキーのブランド名であるサントリーとなったのはいまからちょうど60年前の1963年であった。それ以前の社名は寿屋であった。
山に寿。遊びごころもあるだろうが、それだけでは語れないものがある。寿屋の名を未来へ伝え残すこと、さらには佐治敬三の強い想いが込められているような気がする。
(『山崎100周年7/ウイスキーづくりと山崎駅』はこちら)
山崎の崎のつくりは寿(「山崎12年」100周年記念ラベル)
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