日英同盟とウイスキー
4回にわたりスコッチ、アイリッシュ、アメリカン、カナディアンの100年前のウイスキー事情を語ってきた。さてジャパニーズである。今回は100年前の日本の酒事情についての前篇をお送りする。
日本で、海外の酒、つまり洋酒のなかにウイスキーという酒があると、多少なりとも認知されたのは日英同盟が結ばれたことが大きい。今回はちょっと寄り道して、明治末から話をすすめたい。日本初の本格モルトウイスキー蒸溜所、山崎蒸溜所創業(1923・大正12)よりもはるか前のことである。
1902年(明治35)に日英同盟は成立したのであるが、それまでは蒸溜酒はブランデーがたくさん輸入されていた。ところがイギリスとの同盟により、次第にウイスキー輸入量が増えていく。ただし、とんでもなく高価で、ほんとうに限られた人だけが嗜む洋酒でしかなかった。一般市民の感心なんぞまったくなかったといえる。正直にいえば、ほとんどの日本人がそんな酒は知らない、といった時代だった。
醸造酒のほうは、清酒の国の人々にとってワインは酸っぱいものだったし、日本でもなんとかワインづくりを定着させようと頑張ってはいたが、世に出してもいまひとつ受け入れられなかった。
輸入ワインを扱いながら、酸っぱい、と見向きもされないことに悲嘆した若き実業家、鳥井商店(1899年創業、1906年寿屋洋酒店)の鳥井信治郎が、まずは日本人の舌に乗せよう、と調合の鬼となり、スペイン産ワインをベースに香料や甘味料をブレンドしてつくり上げたのが「赤玉ポートワイン」(現赤玉スイートワイン)だった。1907年(明治40)のことである。
この甘味葡萄酒は大ブームとなり、やがて信治郎はその利益をすべてウイスキー事業に注ぎ込むことになる。
日本で最初のウイスキー研究者は誰か
明治から大正デモクラシーの時代に変わると、ビールが日本人のこころをつかむ。ビアホールだけでなくカフェーが大興隆し、そこでビールが飲まれはじめる。カツレツ、コロッケ、グラタン、ライスカレー、サンドイッチといった洋食とともに飲まれたりする。都市には娯楽施設が登場する。ダンスホール、ビリヤード場といった場所でもビールが飲まれはじめ、これによって広く市民生活に根付いていく。ここから清酒とビールの時代が長くつづくのである。さて、大正に入り信治郎は本格ウイスキーづくりへの想いが強くなっていくのだが、それよりもずっと前にウイスキー研究をした男がいる。
高峰譲吉。彼は科学者として胃腸消化剤タカジアスターゼの開発やアドレナリン抽出、結晶化に成功したバイオ研究の先駆者であり、人造肥料、ベークライト、アルミなどの分野でも技術支援をおこなうなど多大な功績を遺した偉人である。
その高峰が日本で最初のウイスキー研究者である。1880年から4年間イギリスへ留学。グラスゴーでウイスキーづくりも学んだ。おそらく、モルトウイスキー、グレーンウイスキー、ブレンデッドウイスキーというものを最初にキチンと認識した人物でもあろう。(次ページへつづく)