禁酒法施行前夜のアメリカ
オールドタブ
『100年前のウイスキー事情その1・スコッチ』の記事で、アメリカの禁酒法について少しだけふれている。アメリカでは1917年に飲料用アルコール製造、販売等に関する憲法修正18条が提出され、議会を通過。1919年1月16日、修正条項が成立し(一度はウィルソン大統領が拒否するものの、ボルステッド法制定)、1年後の1920年1月16日に禁酒法が施行された。禁酒時代は1933年までつづいたと述べた。
ここで認識しておかなければいけない点は、憲法修正18条が提出される以前、すでにさまざまな州で禁酒法が成立していたことである。号砲一発の全国一斉だった訳でない。長く根強くおこなわれていた禁酒運動が19世紀末には政治的な影響力を持つまでになり、そして第一次世界大戦が禁酒派にとって好都合ともいえる国家的な法制化への動機づけとなった。
1913年には9つの州で酒類販売が禁止されていたし、市や郡、小さな町や村にまでさまざまな規制がおよんでいた。1917年の段階ではアメリカ国民の50%以上が、何かしらの酒類規制のある土地で暮らしていたようだ。
ではウイスキーと第一次世界大戦(1914—1918)のアメリカ篇。まずこの大戦が酒類業界に及ぼした影響を簡単に述べよう。その1で述べたスコッチ、そして前回記事その2アイリッシュ同様に、いやそれ以上にアメリカはどん底の時代となった。
いまでも名高いいくつかのビールブランドは19世紀半ば以降にドイツ系アメリカ人が創業したものであり、まずビールに厳しい目が向けられた。アメリカが第一次世界大戦に参戦したのは1917年4月のことだが、これによりドイツへの反感が頂点に達したのである。そして戦争ヒステリーによって、食料用穀類を原料とする酒への反発、飲酒による生産性の低下などが叫ばれる。
ウイスキー業界もドイツ系が多かった。当時最も飲まれていたライウイスキーもそうだし、バーボンウイスキーを代表するビーム家はもちろん、ケンタッキーにもドイツ系の蒸溜業者がたくさんいた。
そこからドイツ系だけでなく、アイリッシュやスコティッシュをはじめとした酒場経営者たちの立場も悪くなっていく。
都市型犯罪と女性の酒場進出
ラフロイグ10年
ボルステッド法は製造、輸送、売買などは禁止したものの、飲酒自体は禁止してはいない。結局は密造、密輸が横行。そこにはギャングが介在する。近代的都市型犯罪というものが生まれてしまう結果となった。
よく言われていることだが、“高貴なる実験”と舞い上がり、社会に及ぼすさまざまな影響など検討する余地もなく、深く考えもしないで施行してしまった愚かな法であった。誰もが後悔した。
ギャングの台頭だけでなく、もぐり酒場の乱立と女性の酒場進出など皮肉な結果をもたらす。
バーボンウイスキーにおいて19世紀に「オールドタブ」というビッグブランドを生んでいたビーム家は、まったく別の事業に携わりながら禁酒法という苦難に耐え忍び、法撤廃後にすぐさま蒸溜を開始してバーボン業界の再建、活性化に多大な貢献をした。そして「ジムビーム」という世界的なブランドを生み、21世紀のいまも蒸溜業界を牽引しつづけている。これは驚異といえる歩みである。
ライウイスキー業界は衰退し、バーボン業界においてもなかなか立ち直れない蒸溜所も多かった。
ただし禁酒法時代、薬用という認可を受けて、販売を許されていたバーボンもあった。そして輸入ウイスキーであるスコッチウイスキーにも薬用アルコールと認められたものがあった。
シングルモルト「ラフロイグ」(ラフロイグ10年・750ml・43%・¥5,600税別)。いまも世界的に人気の高いアイラモルトだ。
「ラフロイグ」はアイラモルト特有のスモーキーで海藻や潮の香の特性を抱いている。しかも他にはないより強い個性がある。好きになるか、嫌いになるか、と評される薬品を想わせるヨード様の感覚を、アメリカ当局は薬用と認めたのである。
医師の診断書があれば購入できた。抜け道もあったのである。(その4・カナディアンへ)
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