「死にたい気持ち」を持つ人が抱える虚無心
「生きている意味、あるのだろうか?」そんな思いに駆られていませんか?
しかし、死ぬことに直結するような決定的な原因がなく、また実際にそれを行動に移すほどの強い衝動はなくても、うっすらと「死にたい気持ち」を抱えて生きている人は少なくないかもしれません。そしてそのような人は、「この人生には、『私』が生きてまでする意味のあることなど、あるのだろうか?」という思いを持っている人ではないかと思います。
生きていれば、おいしいものを食べて良い気持ちになったり、面白い小説を読んで笑ったり、恋人ができて心がときめいたりといった出来事があるかもしれません。このように心が満たされた時や、楽しい気持ちになれた時、「生きていてよかった」と実感する人は多いでしょう。
一方で、うっすらと「死にたい気持ち」を抱いている人は、たとえその時々に楽しい気持ちになれたとしても、「だからって、それが何なの? それをやる意味ってあるの?」という思いがすぐに湧いてきてしまうのだと思います。そして、こうした方の多くは自分が抱える虚無的な思いがわかり、その思いの意味を感じ取ってくれる人の存在を求めているのだと思います。
「生きていれば、きっといいことがあるよ」「楽しいことを寄せ集めれば、生きていてよかったと思えるよ」といったポジティブなアドバイスは、虚無的な思いの理解者を探す中では波長の異なるものなので、聞きたくないとすら感じてしまうのです。
「同調自殺」とは……ネットでもリアルでも起こる不幸
とはいえ、こうした思いに耳を傾け、その思いの意味を深く感じ取ってくれる人を見つけるのは簡単ではありません。身近に似た気質の人が見つかったとしても、ふとしたところで波長のズレに気づいてがっかりしたり、相手に話したことが他の知人にも話されてしまうのではないかと安心できなかったりするかもしれません。そのため、内面にこのような気持ちを持つ人は、匿名性が高く、似た悩みや思考を持つ人を比較的に気軽に探すことができるインターネットの中に、共感や答えを求めることも多いように感じます。とはいえ、インターネットの中でも得られる反応はさまざまです。
悩みなどを投稿すれば、共感や答えだけでなく、見知らぬ人からお説教のような反論をされて落ち込むことや、心ない言葉を浴びせられて傷つくこともあるかもしれません。そうした場合には、自分が投稿したことを後悔してしまうこともあるでしょう。
多くの場合、虚無的な思いに共感し、気長に付き合ってくれる人は、やはり同じように虚無的な思いを抱えている人ではないかと思います。とはいえ、渦中にいる者同士で会話をすると、共感はできても未来への出口はなかなか見つからないものです。
出口が見えない中でお互いの虚無的な思いを深め合うと、「やっぱり生きていても意味がない。ならば死んでしまおうか」という思いに集約されていくことがあります。これはもちろん、インターネットの中だけに限定された話ではありません。リアルの場でも、悩みを打ち明け合っている人同士がお互いに将来を悲観して共感し合い、一緒に死を選んでしまう、「同調自殺」は起こります。必ずしも、同じ悩みを持つ人同士で集まることが建設的な解決の糸口になるわけではないのです。
死にたい気持ちを抱く人は、人生の根幹的な意味を知りたい人
「『私』がこの人生を生きることの意味」に向き合ってみましょう
冒頭に、いつもうっすらと「死にたい気持ち」を抱えて生きている人は、「この人生には、『私』が生きてまでする意味のあることなど、あるのだろうか?」という思いを持っている人ではないか、とお伝えしました。実はこの思いの中にこそ、出口のヒントがあるように私は思います。
そもそも、自分の人生の意味を見いだせないということは、人生に対する大きな期待があり、「『私』がこの人生を生きるほんとうの意味を見つけたい」という思いから発しているのではないでしょうか?
おいしいものや面白いこと、楽しいことで生きている意味を感じることを、どこかで浅薄で空疎なことだと考え、もっと自分が生きている根幹的な意味を感じられるような実感を欲しているのかもしれません。
それならば、「『私』がこの人生を生きることの意味」ととことん向き合ってみてはどうでしょうか。楽しいことを追い求めたり、「世のため人のため」に学んだり働いたり、自分の力を証明しようとしたり、子どもを産み育てて次世代に貢献することだけが、人生を生きる意味なのでしょうか? 私はそうではないと思います。
この世にたった一人しかいない「私」という存在をとことん大切にし、「これは嫌、これは好き」「これが合う、これは合わない」という素朴な思いに耳を傾け、「そうか、私はそう感じているのか」という素直な気持ちに気づいていくこと。「自分の人生を生きる」ということは、案外そんなシンプルなことなのかもしれません。
いずれにしても、「生きる意味」を見いだせない人は、「私」という唯一無二の存在がこの人生を生きる意味を知りたい人なのだと思います。まずは、「死にたい気持ち」の奥にある、「生きることへの思い」の種を見つけ出してみませんか? そして、その過程で出会っていく人々こそ、きっとあなたにあなたの人生を生きるヒントを教えてくれる人なのだと思います。