「よい母像」ばかり強調されてきた日本文化
自分は後回しで、子どもや家族に尽くす母親はいつでも賞賛されてきた
国民的アニメ『サザエさん』の母・フネさんのように、母親である自分はいつも一歩下がって家族を見守っている。自分の希望を主張せずに、いつでも夫や子どもが優先。家族が楽しそうにはしゃぐ様子を見ているだけで幸せを感じる――そういった聖母のような母親像です。
日本の大ヒット映画の中でも、中年息子を縁づかせた後、姥捨ての宿命を受け入れる『楢山節考』、野口英世を生んだ貧農の母を描いた『遠き落日』、収監された夫を支え、留守宅を懸命に守る妻を描いた『母べえ』など、近年では献身的な母親イメージのみがクローズアップされ、「母とは聖なるもの」というプラスのイメージばかりが独り歩きしてきたように思うのです。
「毒母ブーム」は聖母イメージのリバウンド!?
しかし、ユングの説く「グレートマザー」のように、そもそも人々が共通して抱く母親のイメージには、子どもを献身的に育て慈しむ「よい母」と、子どもをのみ込み、つぶしてしまうほどの支配力を持つ「悪い母」が混在しているものです。したがって、「母とはかくあるべし」と「よい母」のイメージのみに注目するほど、もう一方の抑圧された「悪い母」のイメージも心の底で膨らみ、精鋭化しまうのでしょう。そう考えると、最近世間を騒がせている「毒母ブーム」は、人々が「よい母」のイメージにばかり執着してきた歴史のツケのようにも思えます。「よい母」イメージばかりが喧伝されてきた裏で、もう一つの「悪い母」イメージが心の底でどす黒く煮つめられ、誰かが毒母物語を語りだした途端、同じイメージが人々の無意識からあふれ出し、異常なまでの共感を呼んでいったのではないでしょうか。
とはいえ、魔女狩りのように毒母バッシングばかりを繰り返しても、「悪い母」のイメージが人々の心から消えてなくなるわけではありません。ユングの言う「グレートマザー」のように、人間が共通して持つ「母なるもの」の元型のイメージは、もともと「善と悪」がセットになって一つのものだからです。
毒母をバッシングしても癒されない訳
ところで、毒母体験を思う存分カミングアウトした子どもたちは、そのことで母から受けた毒を「解毒」できたのでしょうか?たしかに「毒」を吐き出すことで、背負ってきた鬱屈は、いっとき楽になったかもしれません。しかしその当人も子を持ち、親になるとき、何を思うでしょう? 現実の子育てでは、「よい母」の顔で子どもに向き合うのは難しく、必ずや自分の中にある「悪い母」の側面にも気づいてしまうものです。善悪を併せ持つのが人の心であり、それが自然なのです。
とはいえ、「悪い母」を否定し続けると、自分にもその一面があることに気づいたとき、「私も、あのひどい母と同じなのでは?」「妻も、あのひどい母と同じだったのか?」という衝撃にかられ、等身大の自分や妻を受け止めることに戸惑ってしまうのではないでしょうか?
毒母バッシングにばかり熱中していると、こうした弊害に直面化する危険があります。大切なことは、現実の母親を善悪を併せ持つ全人的な存在として捉えて理解すること、なぜ自分が母へのコンプレックスを抱えたままなのかを理解することです。私の近著『長女はなぜ「母の呪文」を消せないのか』(さくら舎)でも、その理解につながる情報にたくさん触れていますので、ご興味がありましたらぜひご覧ください。
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