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団塊の世代に輝きを!吉本興業功労者木村政雄氏の転進(2ページ目)

今回インタビューをお願いしたのは、フリープロデューサーの木村政雄氏、吉本興業躍進の功労者である。月刊のフリーペーパー「5l(ファイブ・エル)」の創刊を手始めに講演、執筆など活発に動いている。

執筆者:木村 勝己

横山やすし氏、西川きよし氏のマネージャー

制作部に入ったが、先輩があまり働かずおまえやっとけの世界。勉強のため仕事が終わってから現場へチョクチョク出歩くうちにマネージャーになる。特にマネージャーになりたいといった希望があったわけではなく自然になっていたという。

横山やすし氏、西川きよし氏のマネージャーは24歳の頃に担当となる。最初は付き人のような感じであった。しかしマネージャーを始めて2ヶ月目、横山やすし氏が傷害事件(お酒を飲んでタクシーの運転手を殴った事件)で2年4ヶ月の謹慎になってしまった。これは厳しい処遇であったが西川さんが相棒を待つといった。このころ再スタートいったことで一緒に頑張ったことが、気持ちが一つになり信頼感が生まれる結果を生んだと振返る。8年半務めたあと担当の難しいタレントのマネージャーをさらに1年くらいやる。

きっかけは~、THE MANZAI

1980年10月、東京事務所開設に関わる。東京に行くぞ!と当時上司の林氏に言われ付いていったら事務所の場所探しで、そのまま所長にされていたそうである。その頃、フジテレビではTHE MANZAIが企画されていた。野球がなかったら放送される雨傘番組であったが、タレント7組(大阪組4組、東京組み3組)のうち、吉本興業から4組(元吉本興業のB&Bを入れると5組)の協力を申し入れ、これが空前の漫才ブームを引き起こすことになる。吉本興業の業界での基盤を大きくした時である。

1989年、大阪へ戻れといわれ制作部長になった。東京の事務所で自由に仕切っていたので、この辞令にやめようと思ったそうだ。やすし・きよしのマネージャーの最後、方針の食い違いで意見が対立したとき、会社がタレント側についたときもやめようと思ったそうで、この辞令で2回目という。安住を求めず、自分が関わる最良の形、楽いことを常に考えて行動している現われといえる。

大阪本社では次ページのような吉本新喜劇のリストラを進める。
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