アメリカの禁酒法とスコッチ
日本には1909年(明治42)に初輸入 |
アメリカの禁酒法、合衆国憲法修正18条が施行されたのは1920年。アルコール飲料の製造、販売、輸送を禁じたが、飲酒を禁止したわけではなかった。フランクリン・ルーズベルト大統領が1933年に撤廃するまでの間、「高貴なる実験」と呼ばれたこの法は社会のさまざまな面に影響をもたらしたが、この記事はウイスキーに関した一面だけを捉えたものであることをご承知願いたい。
まずはスコッチ。イギリスでも禁酒運動は盛んで国内消費は落ち込んでいた。ただ少量は医薬品として合法的にアメリカに輸出されていた。また大英帝国のさまざまな国からスコッチはアメリカに流れ込んだ。カリブ海やカナダからのルートがあり、禁酒法の痛手は予想よりも少なかったようだ。とくにカナダは元首国イギリスにとって重要な役割を担う。
禁酒法で基盤を築いたカナディアン
実はカナダはアメリカより早く、1916年に禁酒法が制定されていた。ただ州ごとに禁酒法が出されたため、なかでもフランス語圏の州の禁酒はゆるかった。加えてなぜか輸出用ウイスキーの生産だけは認められていた。アメリカの10分の1の人口のカナダにとって、隣のアメリカ市場で受け入れられることこそがウイスキー事業の生きる道だったからだ。カナディアンウイスキーのその象徴は、当時クラブウイスキーと呼ばれたカナディアンクラブ(C.C.)。この1本は19世紀末からアメリカ市場で大成功を収めていた。C.C.を代表とする正規ウイスキーとともに、偽カナディアンが大量にアメリカに密輸されるようになる。
偽カナディアンの多くは、禁酒国カナダに密輸されたスコッチにスピリッツや香料をブレンドしたものだった。大きなルートはふたつ。セントローレンス湾に浮かぶフランス語圏の島々から、そしてキューバに送る体裁にして夜の闇に乗じて五大湖を渡った。どんなルートもすべてアメリカにつながっていた。
こうしてカナディアンウイスキーはアメリカ市場の基盤を築き上げた。そしてスコッチも少なからず救われたのである。ただ密輸に手を染めて衰退したスコッチもある。次頁ではその話をしよう。
(次頁へつづく)