黄山毛峰の歴史



その味わいや香りが古くから珍重された


このお茶は、宋の時代から生産が始まり、明の万暦年間(1573年~1619年)には、すでに名を馳せており、当時は「黄山雲霧茶」と呼ばれていました。

清代の『素壺便録』という書物には、「黄山には雲霧茶があり、高山の頂上に産し、雲が漂い、霧が潤し、 其樹は百年の者も有り、芳香が満ち、俗味が無し、茶品中の第一と為すべし」との記載がみえます。

また、『黄山志』には、「蓮花庵の傍、石の隙間を利用してお茶を培い、軽い香があり、黄山雲霧と謂れ。......雲霧茶、微かな香り、上品な趣があり、遠かに匡廬に勝る」と記されています。

清代の光緒年間(1875-1908)なると、生産がさらに盛んになり、このころ、謝裕泰茶屋という茶業業者が、初めて「黄山毛峰」という名前で茶葉を売り始めました。創始者の謝静和は、歙県の漕溪出身で、茶荘の経営だけでなく、茶摘みと加工技術に精通した職人であったと言われています。彼は、毎年の清明節前後、黄山の湯口、充川などの所で高い山に登り、嫩い新芽を摘み、丹精に炒め、「黄山毛峰」という商標を付けて中国の各地まで販売しました。

当時屯溪に集積されるお茶は、屯緑とよばれ、その昔17世紀以降、広くヨーロッパにも輸出されていました。「トワンケー」と呼ばれていたのがそれだろうと推測されています。

この時代のお茶は、ハイソン(その中でもヤングハイソン)を頂点として、ハイソン・ピーコー、シンロ、トワンケー、ガンパウダーなどが広く輸出されていました。これらのお茶がどのようにヨーロッパで飲まれていたのかは、非常に興味深いところですが、その最上級品が、この黄山毛峰であったことは想像に難くありません。

その後も途絶えることなく生産を続け、1875年には高級の黄山毛峰の年生産高は5000キロ以上にも達し、さらに文革まえの1955年には、中国茶葉公司によって中国十大銘茶の一つに指定されました。

一時期文革により茶業が衰退しましたが、70年以降、徐々に生産が増え、80年代になると中国政府から様々な称号や栄誉証書を与えられ、1986年には中国外交部の公式な指定贈答品に選ばれるようになり、現在では、龍井、碧螺春とともに、中国を代表する緑茶の一つになっています。