世界遺産

ガイド:長谷川 大

世界遺産120か所を訪れた経験豊富なガイドが、各地の世界遺産の魅力をご紹介。

旅する世界遺産 魅惑の古都

掲載日: 2007年 05月 23日

旅情を誘う美しき廃墟 タイの古都アユタヤ

古都アユタヤ、400年の歴史

チェディからの眺望
ワット・ヤイ・チャイ・モンコンのチェディからの眺め。このチェディは1569年にビルマに侵略されたアユタヤを再興したナレースエン王の戦勝記念碑。©牧哲雄 ※写真はクリックで拡大
海がなくてもアユタヤは港町だ。三方をチャオプラヤー川、パーサック川、ロッブリー川に囲まれて、チャオプラヤー・デルタの豊かな平原を利用して、この地は古代から大いに繁栄した。

もともと中国の雲南省近辺で暮らしていたタイ族(小タイ族)は、モンゴルの中国進出を受けて南へと移動する。はじめはアンコール朝の支配下におさまったタイ族だったが、アンコール朝の力が衰えると、まず13世紀に現在のタイ北部にスコータイ王朝を建国。スコータイの弱体化を機にさらに南下したタイ族の一派は、1351年、ウートーン王(ラーマーティボディー1世)を掲げてアユタヤ王朝を建てる。

ワット・プラ・ラーム
池に囲まれたワット・プラ・ラーム。トウモロコシのような仏塔がクメール式の特徴。この寺院にはウートーン王が眠っている。©牧哲雄 ※写真はクリックで拡大
東南アジアは多数の国や都市国家が乱立していた時代で、アユタヤ王朝は、北にスコータイ、東にクメール、南にマラッカ王国、西にビルマと、四方を強国に囲まれていた。1362年、クメール王朝のアンコールを攻めて領土を広げると、1438年にはスコータイを吸収。東南アジア最大の国家となる。

16世紀になるとポルトガルやスペイン、オランダ、イギリスらと通商条約を結び、「シャム」と呼ばれたアユタヤ王朝は世界規模の貿易によって大いに繁栄する。山田長政が朱印船でこの国に来たのが1612年で、やがて日本人傭兵隊長となり、日本人町の頭領となった。アジア各国が次々と植民地化されるなか、アユタヤは欧米列強との巧みな外交政策を通して独立を貫いたが、1767年、ビルマ・コンパウン朝のシンビューシンによって陥落し、400年に及ぶ王朝は幕を下ろす。

廃墟に眠る多様な建築様式

ワット・プラ・シー・サンペット
鋭い円錐が特徴的なワット・プラ・シー・サンペットの3つのセイロン式仏塔。1491年、ラーマティボディ2世が、父、兄、自分の墓として建築した。ここは象に乗って散策することもできる。※写真はクリックで拡大
最盛期には、3つの宮殿、100の門、400の寺院、1万体の仏像を擁したという古都アユタヤ。スコータイは比較的穏やかで自由だったが、アユタヤはヒンドゥー教の影響を受けたクメールを真似て、王自ら神の化身を名乗り、独裁的で厳粛な法や罰を適用して国を引き締めた。それは建築様式にも現れており、仏像ひとつとっても形は数パターンに決められており、豪華絢爛かつ厳格な美術様式で国民を圧倒した。ちなみに現在バンコクで見られる王宮などはこのアユタヤの豪華絢爛を再現したもので、アユタヤはスコータイとともにタイ美術の基礎を磨き上げた。

目を引くのはアンコールに似たクメール式の仏塔。ウートーン王の墓であるワット・プラ・ラーム、仏陀の遺骨が収めらたといわれる仏舎利塔ワット・プラ・マハタート、アンコールの宝が見つかったワット・ラチャブラナなどがこれにあたる。

ワット・プラ・シー・サンペット2
緑が美しいワット・プラ・シー・サンペット。幾何学も黄金比も関係ないのに、廃墟はなぜこうも美しいのだろう? ※写真はクリックで拡大
また、スコータイやアユタヤはスリランカ(セイロン)との交易を通して仏教を輸入しており、また同じスリランカ経由で仏教が広まったといわれるビルマの影響も受けて、セイロン式の仏塔も多く見られる。アユタヤ最大の仏塔を誇るワット・プラ・シー・サンペット、王妃スリヨータイのチェディ、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンなどがそれだ。

そしてスコータイから伝わるタイ特有の寺院建築が、高さ約20mの大仏を祀るウィハーン・プラ・モンコン・ボピット、レリーフが美しいワット・ナー・プラメン、アユタヤから20kmほど離れた場所にあるバン・パイン宮殿などだ。

このように、多様な文化を融合させながら厳格さを追い求めたアユタヤ文化。その矛盾は、不規則に打ち捨てられた廃墟でありながら、熱帯の重い青空と輝く緑に調和する不思議な古都を彩って、泣けてくるほどの美しさを描き出す。

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