戦時下でも稼働していた山崎蒸溜所
左/慰問用「サントリーウイスキー赤札」」、右/海軍特製「イカリ印サントリーウイスキー」ラベル
さて、前回『山崎蒸溜所100周年9/1929−1937までのサントリーウイスキー』では、本格国産ウイスキー第1号「サントリーウイスキー白札」から「角瓶」誕生までの時代的な流れを述べた。
今回は1937年(昭和12)の「角瓶」誕生後の時代の流れについて述べたい。「角瓶」たちまち人気になった。舶来品至上主義者だった飲み手たちが納得する味わいだっただけでなく、戦前のバー興隆期にもあたり人気を博した。バーの興隆がウイスキーという洋酒の認知を広めたともいえなくはない。
ただし戦争の足音は大きくなりつつあった。その象徴のひとつが、1939年(昭和14)に登場した慰問用「サントリーウイスキー赤札」である。ところが興味深いことに、同年に洋酒知識普及のために、一般消費者に向けてカクテルブックを頒布するとともに「カクテル相談室」という部署を設置している。バーへの対応もしっかりとおこなっていた。
翌1940年、「角瓶」につづく鳥井信治郎の傑作、「オールドサントリー黒丸」(後の「サントリーオールド」)が誕生。ところが時局による物価統制法(奢侈品制限令/しやしひん)により、発売を見合わせることになる。そして1941年(昭和16年)、太平洋戦争に突入してしまう。
太平洋戦争勃発後は洋酒に対しての制限、統制はより厳しくなっていく。
戦時下の経営は厳しいものがあった。「赤玉」の主力工場でスピリッツなどさまざまに製造していた大阪工場は海軍指定を受けて航空燃料製造に携わることになる。負担は重かった。ところがそれが山崎でのウイスキーづくりに生きた。
はじめにイギリス海軍に学んだ日本海軍はウイスキーを愛していた。入手が困難になりつつあった原料の大麦の便宜を海軍が図ってくれたのだった。そのため山崎蒸溜所は戦時下でも変わることなくウイスキーづくりができた。
そして日本海軍は軍納品として「イカリ印」(1943年/昭和18)の名の特製ウイスキーを発注してくる。本文上部のラベル画像をご覧いただきたい。戦時下を反映して、漢字とカタカナの表記になっている。
戦争末期は大麦とモルト原酒を守ることに懸命だった。山崎の谷に防空壕を掘り、大麦を運び入れ、貯蔵樽を隅に隠し、竹や草木で覆った。
1945年(昭和20)終戦。大阪本社、大阪工場は空襲により焼失。山崎蒸溜所は無傷だった。敗戦で悪酒を飲んでいる市民のために、手に届きやすい価格の「トリスウイスキー」を終戦の翌年(1946年)にいち早く発売している。
そして1950年(昭和25)、酒類の公定価格が廃止となり、自由競争の時代を迎える。同年にトリスバーが誕生。そして「黒丸」こと「サントリーオールド」がついに発売されたのである。戦中を耐えた深く熟成したモルト原酒がブレンドされていた。
(『山崎蒸溜所100周年11/1950年代、戦後日本の酒場事情』記事はこちら)
関連記事
サントリーホワイトを飲もう/2019年発売90周年サントリーレッド、元祖家飲みウイスキーのススメ
山崎蒸溜所100周年9/1929−1937までのサントリーウイスキー
山崎蒸溜所100周年8/文豪・谷崎潤一郎と45代首相、吉田茂の山崎
山崎蒸溜所100周年3/湿潤で美しい水郷地帯
山崎蒸溜所100周年4/名水が生むモルトウイスキー
山崎蒸溜所100周年5/ウイスキーとエゴマ油発祥地
山崎蒸溜所100周年6/山崎宗鑑と松尾芭蕉の足跡
山崎蒸溜所100周年7/ウイスキーづくりと山崎駅