パートナーと他人とのセックスを容認できるか?
一方、著者はセックスボランティア団体があるオランダへも取材に赴いています。オランダのセックスボランティア団体は、ある夫婦が中心になって運営されています。妻はかつてマスターベーションの介助も行ったことがあるものの、今はできない、夫にもしてほしくないと言います。これを聞いた著者は「自分がパートナーにしてほしくないことを、(セックスボランティアの)メンバーにさせることがなんだか腑に落ちなかった」と書いています。また、オランダで性の解放を進めている別の団体の責任者の男性は、自身も妻も、かつては障害者対象のセックスボランティアをしていました。著者はこの男性に「(妻がセックスボランティアをすることに)反対しなかったのですか?」と尋ねています。答えは「これは当然のこと。誰かが川でおぼれていたら見過ごせない、それと同じ」。しかし著者は「パートナーが他人とセックスすることをそんなに簡単に容認できるものなのか」と理解に苦しみます。
読みすすめていくうちに、著者自身が障害者と性の問題に深く踏み込んでいくにつけ、理解できない思いと、障害者にとって性が避けて通れない問題であることの間で戸惑っている様子が、冷静な文章の合間からかいま見られます。読みながら、私も著者と同じように揺れていました。
「そのときはそのとき、性は生きる根本、辞めるわけにはいかない」
「性の商品化はいけないという人がいても、それで少しでも笑えるようになる人がいるならいいのではないか」
「自分がパートナーにしてほしくないことを、(セックスボランティアの)メンバーにさせることがなんだか腑に落ちなかった」
「パートナーが他人とセックスすることをそんなに簡単に容認できるものなのか」
どれも否定できません。