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日本のウイスキーづくり80周年、情熱の時代 ひとりの男の魂が宿った、傑作(3ページ目)

80年前。日本にはウイスキーの需要などなかった。ひとりの男が「需要はつくればいい」と立ち上がった。不評、資金難。辛酸をなめつつも男はブレンドを繰り返す。そこから時代を超えて愛されつづける傑作が誕生した。

協力:サントリー
達磨 信

執筆者:達磨 信

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ジャパニーズの傑作、誕生

こうして1929年に『白札』は発売された。
信治郎の期待とは裏腹に、“焦げ臭い”と酷評された。ピートの焚きすぎであったのではないかといわれている。
不人気は仕方がなかったともいえる。好事家は国産など見向きもしない。いまでもそうだが、極東の島国ニッポンの国民の特性で、舶来盲信だった。そしてウイスキーに馴染みがない一般市民が口にした時には、強い酒への驚きとともに単純においしくない、とソッポを向かれていた風潮がある。

ここから信治郎の鼻が真価を発揮する。彼は寿屋を創業する前、若年に薬種問屋に勤めていた。そこで身に付いた調合技術がウイスキーでも発揮された。すでに『赤玉』で鋭い感性は実証済みだが、ただこの時は企業の命運がかかっている。どうすれば日本人に愛される香味のジャパニーズ・ウイスキーが生まれるのか。繊細な日本人の舌を捉える香味の創造のために膨大な時間を費やす。

町にモボ・モガが闊歩する時代を迎えてはいたが、服装がハイカラでも舌は洋風化していなかった。もちろん値が高価だったこともあるが国産ウイスキーへの注目度はあまりにも低かった。

『白札』につづいて翌年には『赤札』を発売するがブームを起こすに至らなかった。
1931年(昭和6年)には資金難のため原料の大麦を買い付けることができず、蒸溜所は稼働を停止した。ひと樽でも多くの原酒をつくり熟成させたい信治郎にとっては苦渋の年となる。

竹鶴は1934年(昭和9年)に寿屋を退社する。もともと10年の契約だった。彼は寿屋での経験を基に独立して大日本果汁(ニッカの前身、現アサヒビール)を設立した。
信治郎は初代工場長を失ったが、それでもひたすらテイスティングする日々がつづいた。山崎の貯蔵庫で熟成する原酒をひとつひとつ官能し、豊かな香味を創造しながらブレンドに明け暮れる。

1937年(昭和12年)、ついにひとつの香味が花開く。
12年もの『角瓶』の誕生だった。時代を超えていまなお愛されつづけている『角』。この一瓶がついに日本人の舌を捉えた。日本の風土に育まれ、日本人の繊細な感性に応えた香味として、舶来盲信の好事家たちも称賛した。

不評や資金難といった辛酸をなめつつもブレンディングを繰り返した信治郎のスピリッツが宿った一瓶だった。この男がいたからこそ、この傑作が誕生したからこそ、今日のジャパニーズ・ウイスキーがある。80年の年月がある。

――――とにかくあの清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないことはいうまでもない(竹鶴政孝著『ウイスキーと私』より抜粋/原文まま)――――
(了)
写真上/『白札』発売時の記念撮影・中/1937年発売『角瓶』・下/テイスティングする信治郎

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