式典は10月1日に山崎蒸溜所でおこなわれた。
パネルディスカッション、初代の横につくられた二代マスターブレンダー銅像のお披露目につづいて式典があった。60周年時に樽詰めされた原酒の開栓、三代マスターブレンダー鳥井信吾副社長によるニューポットの樽詰めがあった。このニューポットはおそらく100周年に開栓されることだろう。
ただ静かにそれらを見守りながら、文献でしか知ることのない黎明期を反芻していた。

一般大衆の需要などまったくない時代に、寿屋(現サントリー)創業者鳥井信治郎はウイスキー事業をはじめた。1923年(大正12)のことである。
45歳の鳥井信治郎は当時人気を誇っていた赤玉ポートワインの利益をすべてウイスキー事業に注ぎ込んだ。
日本初のウイスキー工場、山崎蒸溜所の初代工場長は竹鶴政孝だった。3年近くスコットランドで製造を研究した29歳の男に現場はまかされた。

よく五大ウイスキーといわれる。アイリッシュ、スコッチ、カナディアン、アメリカン、そしてジャパニーズを指す。カナディアンもアメリカンもアイルランドやスコットランドの移民もしくは子孫によって発展したものだが、ジャパニーズだけが特異である。彼らの血は入っていない。日本人だけの手によって生み出されている。

それゆえに無理があった。白札(現サントリーホワイト)が1929年(昭和4)に発売されたが、まったくもって不評だった。スモーキーすぎて、「焦げ臭い」と酷評された。
普通に考えてみるといい。3年足らずのスコットランド留学の竹鶴に100点を取れという方がおかしい。竹鶴自身も著書に、自分のノートだけでは判断がつかないことが多く、試行錯誤の連続だった、と書き遺している。
そこから信治郎の鼻が発揮される・この明治男の五感は薬種問屋での丁稚時代に鍛え上げられていた。調合はお手のもので、そこから赤玉ポートワインが生まれてもいる。何故人気が出ないのか、マスターブレンダーとして信治郎は原酒をひたすらテイスティングする日々となる。
1937年(昭和12)、ついに日本を代表するはじめての傑作が誕生する。角瓶である。ロングセラーをつづけ、いまなお根強いファンがいることでもその真価がわかるというものだ。

そして戦争となっても山崎蒸溜所は無事であり、戦後、トリス、オールドといった製品を生みだしていく。
1960年(昭和35)に誕生したローヤルが信治郎の遺作となったが、それを手伝ったのが二代マスターブレンダーの佐治敬三だった。息子である敬三はリザーブを誕生させ、白州蒸溜所を建設し、オールドを一時期世界No.1ブランドへと成長させた。
この男が日本のウイスキーを飛躍させたと断言してよい。