名前の由来
碧螺春には様々な由来があるのです
碧螺春の名前の由来はいろいろあるようですが、洞庭東山碧螺峰の石壁に数株の茶樹があり、地元の人たちが「嚇殺人香」(人を殺すほど良い香り)と呼んでいたのを、清の康キ帝がその山の名前を取って「碧螺春」となずけたというのが定説(清の時代に書かれた「野史大観」や「隋見録」に書かれています。)となっています。
その他には、とても哀しく美しい伝説もあります。この話は、東京中国茶文化研究会が翻訳した本にあった話ですが、概略をお話すると、次のような伝説です。
昔、太湖のほとりに「碧螺」という歌の上手な美しい少女が住んでいました。彼女の声はとても美しく、湖畔の反対側の村に住む人々にまで聞こえていました。
ところが、彼女を見初めた太湖の竜神が、碧螺をその年の生け贄にせいと要求したことから村人達の悲しみは始まりました。村人の苦しみを無くし、碧螺を助けようと、太湖の反対側の村に住む青年「阿祥」は、その竜神と壮絶な戦いを繰り広げました。
七昼夜に渡る壮絶な戦いの末、阿祥が槍を竜神ののどにうち差し、決着が付きました。しかし、戦いに勝ったけれど、阿祥は生死に関わる怪我をしてしまったのでした。かれの心に打たれた碧螺は、阿祥を生死の淵からが救い出そうと、山の中腹に生えていたお茶を、いたまないように唇で摘み、阿祥にのませました。
阿祥はだんだん回復しましたが、逆に碧螺は急斜面に生える茶葉を唇で一生懸命摘んで、寝ずに看病したために、碧螺は結局過労で死んでしまいました。
その少女を痛んで、そのお茶は「碧螺春」となづけられたのだという、なんとも物悲しい伝説ですね。
碧螺春は、見た目が非常に華奢な茶葉で、主に1芽1葉が渦巻き状に製茶されています。主に春分から清明節少し後までの間に摘み取られます。