賑やかな一日
かすかな物音が聞こえた気がして、いったん手を止めて耳を澄ませた。すると、「はぁ~い」と、弱々しい声がかすかに聞こえた。とりあえず返事があったので少しホッとしながら、続けて声をかけた。「隣の加瀬ですけど。あの~、どうかなさいました?」
麻季子は、人に「大丈夫ですか?」と訊くと、「大丈夫じゃない」とは答えにくく、大丈夫ではなくても「大丈夫」と答えるしかないので、「大丈夫ですか?」とは訊かないようにしている。しばらく経ってから、ようやく足音がして、玄関のドアがそっと開いた。
「あぁ、加瀬さん」
「西田さん、どうされました? すごい悲鳴が聞こえたものですから」
「あらぁ、恥ずかしいわ。何でもないのよ」
「何でもないって……」
見ると西田さんの目は泣いた後のように潤んでおり、化粧もおおかた取れて、上着もあわてて着たようにいい加減になっている。何もなかったとは思えない状況だ。いったい何があったのか? それともたずねてはいけないような事情があるのだろうか?
「あの、もし差し支えなかったら、事情を聞かせていただければ。何しろ、ものすごい叫び声でしたから、心配しちゃって」
「ごめんなさい。ホントに恥ずかしいんだけど……実はね、虫なの」
「は? む、虫ですか?」
「ちょっと納戸の整理をしようと思ってドアを開けたら、虫が顔に飛びついてきて胸元に落ちたものだから。思わず悲鳴をあげちゃったのよ。で、顔を洗ったり、服を着替えていたものだから、加瀬さんが玄関に来ていたのは分かっていたんだけど、出てくるのに時間がかかっちゃって。すみません」
放っておけないですよ |
「もう、バ○サンもやったし、マメにお掃除もしているんだけどねえ」
「大変でしたねえ。私もちょうど物置の整理をしようと思って庭に出ていたから、悲鳴がハッキリ聞こえて。ほら、例の女性殺害事件があったじゃないですか。だから、やっぱり放っておけないと思って」
「私もあんな大きな声を出しちゃって、もうご近所に聞かれたら恥ずかしいって思ったんだけど。でも、そうね、あの事件では叫び声がずっと聞こえていたのに誰一人通報してくれなかったとか。だけど、こうやって悲鳴が聞こえたら加瀬さんがちゃんと飛んで来てくれるって分かって嬉しいわ。もし本当に事件だったら、と思うとねえ」
「インターネットで見た情報なんですけど、もし誰かに襲われたとか本当の事件だったとしたら、『きゃあ』とか『助けて』じゃなくて、『警察呼んで~』とか、『110番して~』って叫ぶといいみたいですよ。『きゃあ』だけじゃ、事件か何か分かりませんでしょ?」
「そうねえ。じゃあ、私も『きゃあ』の後に『虫だ~』って叫べば、加瀬さんも分かってわざわざ来ていただかなくて済んだのね」
「西田さん。『きゃあ』じゃなかったですよ。『ぎゃあ~』でしたよ。ウフフ」
「まあ。いやだわ。オホホ」
年末の大掃除の時期ならではの珍事件かもしれなかった。しかし、もし本当に強盗事件なんかだったとしたら、どうなっていただろうかと考えた。すぐに西田さんの玄関まで行ったことは正しかったのだろうか? 誰か他の人を呼んだり、何か防御する道具でも用意しておくべきだったかもしれない。最悪の事態を考えると麻季子は身が震える思いがした。もし次があれば、そのときはもっと冷静に行動しようと心の中で自分に言い聞かせていた。
夕食後、片付けも一段落してインターネットをやっていると、思ったより早く春彦が帰って来た。めずらしく玄関から大きな声で呼ばれたので急いで行ってみると、靴も脱がずにカバンだけを床に置いていた。
「なんかパトカーが来て、人がたくさん集まっていたぞ。一丁目と二丁目の境目のところだ。麻季子、どうする?」
「そういえばさっきサイレンが…。待って、一緒に行くわ」
急いでコートを取り、リビングでマンガを読んでいる翔太に声をかけた。
「翔クン、悪いけどちょっとパパと出てくるね。すぐ戻るから。鍵はかけていくけど、誰が来ても鍵は開けないで、電話は出なくていいからね」
「うーん、わかってるよぉ~」
(アメリカなら捕まっちゃうわね)と、子どもを一人で置いていくのは気が引けたが、すぐに戻るから、と心の中で謝っていた。冷たい北風の中を春彦と足早に歩いて行くと、パトカーが3台と、近所の人たちらしき野次馬もかなり集まっていた。今日はなんだか、賑やかなことだと麻季子は思っていた。気がつくと、吉川さんが麻季子たちに向かって歩み寄ってきていた。
次回『ミセスの危機管理ナビ~聖夜に鍵は破られた』も続けてご覧ください!
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