連行される
以前、奈美恵は宮下から、記録はその日が終われば一切事務所には残していないと聞いていた。証拠を残さないので、まったく問題はないと言われていたのだ。しかし、現在、個室にいる二人の客の支払い分が引き出しに入っている。女の名前を書いた封筒に入れられて女たちに渡すように用意されているのを奈美恵は見ていた。その封筒を男たちは手袋をした手で中身をあらためると、「間違いないな」「よし」「ほら、こうやって証拠があるだろ」と宮下に突きつけていた。もう一つの封筒には、二人の女の名前と客の名前がメモしてあったのである。
先に客の相手をしていた女二人は、現場を取り押さえられているようだった。奈美恵は自分がどうなるのかまったくわからなかった。宮下は、私服の警察官に逮捕状を読み上げられた。「ここに“札”があるからな。読み上げるぞ。……売春防止法違反により……」という言葉だけが耳に残った。その他は聞こえなかった。いや、聞こえてはいても耳に入らなかった。奈美恵は呆然としていたのだった。「あんたは? あんたは客待ちか?」「……」「いやー、この女の顔は見てないなぁ。新顔かもしれないな」「志願して来てんのか?」何も言わないほうがいいと思い、じっと黙っていた。(札~フダ=逮捕状・家宅捜索令状などの令状のこと)
「とりあえずね、みんな一度、署のほうに来てもらうから。調べればわかるんだから。いいね」泣き出したい気持ちで下を向いていた。警察官たちに指示されてマンションの部屋を出て非常階段を降りると、ルーフに赤色灯がついた紺色のバンが停まっていた。警察車両に乗せられて、マンションからほどなく所轄らしい警察署に着いた。殺風景な部屋で色々と質問をされた。宮下から、万が一捕まったときは、仲間のことは絶対に何も話してはいけない、お互いに知らないと突っぱねること、仲間の足を引っ張ることだけはしてはいけないと言われていた。誰も奈美恵のことは言わなかったようだ。宮下は、たまたま奈美恵に声をかけて遊びに来てもらっただけだと言ったようで、打ち合わせをしたわけではないが、奈美恵も同じように答えていた。
話を聞いていると、状況がだんだんつかめてきた。働いている女の一人が夫とトラブルを抱えており、夫が尾行してマンションを突きとめたらしい。絶対に怪しいとにらんだ夫が警察に相談。同時に、マンションの住人からも、不特定多数の男女が非常階段から入り込んでいるので不審だという情報が入っていたので、この十日間、聞き込みと張り込みを続けていたらしい。そして、宮下には実は「前」があったということ、つまり過去にも「売春防止法違反」で捕まって前科があると聞かされた。いずれにしても奈美恵は、たまたま運良く12日間遠ざかっていたため、面が割れていなかったのだ。(面が割れる=顔が知られる)
結局、あの場にいたことは限りなくアヤシイが、何も罪を犯していたわけではないということで、奈美恵は解放された。だが、免許証を見せて身元を証明したし、刑事さんたちから「売春なんてさ、やめなさい。ダンナさんも子どもさんもいるんだし。家庭が崩壊しちゃおしまいだよ」と言われてしまった。ほとんどしゃべらずに警察署を後にした。通りに出て角を曲がってからすぐにタクシーに乗り込んだ。警察署から出てきたところを誰かに見られたくはなかったのだ。まだ日が高い日中である。最寄り駅につけてもらい、自宅へ帰ることにした。
電車に揺られながら、奈美恵は疲れ果てていた。久しぶりに出向いたマンションでとんでもないことが起きた。あの「管理組合のものです」というのは、おそらく女性の警察官で油断させるためだったのだろう。奈美恵には客がついていなかったことが幸いして、運良く無事だったが、もし客と個室にいたら? 血の気の引くような恐怖に思わず体が震えた。(私はなんてことをしていたんだろう! 恐ろしい)半年もやってきていながら、12日間の空白が奈美恵の頭を冷やしていたのかもしれなかった。罪に問われるようなことはなかったが、警察署で事情を聞かれたことは大ショックだった。売春で捕まりかけた、など誰に言えようか。まさに、危機一髪だった。奈美恵は、この事実に激しく後悔して(もう二度としない!)と心に誓った。
→重なる不運
→→夫の告白
→→→奈落の底を打つ