ある女性の恐怖体験
バーのママをやっているN代さん(36歳)は、毎日帰宅時間が深夜2時を回る。客につきあって酒を飲むことも多いので、ほぼ毎晩酔っている状態だ。その日の売り上げをしっかりとバッグに入れて、タクシーで帰る。マンションの前でタクシーを降りると、釣り銭とレシートを受け取りながら自宅のカギを取り出す。1階の集合郵便受けをチェックしてからエレベーターに乗り込んだ。酔っているので、自宅のある8階のボタンを押すとエレベーター奥の壁に寄りかかった。
突然エレベーターが停まり、ドアが開いた。ハッとして上部の階数表示を見ると2階である。帽子を目深に被った男が乗り込んできた。男はすぐに背を向けてドアの前に立って9階のボタンを押した。8階についてN代さんが降りようとするとすっと右側に避けた。
「あら、すみません」と小さな声でつぶやきながら降りた。手にしたカギを握りしめて自宅に向かった。自分の靴音だけがする。自宅の前にたどり着いた。玄関部分が半間ほど引き込んでおり、通路からは全く見えない。手元をのぞき込むようにしてカギを差し込んでドアを開けた。入ってすぐ玄関の電灯スイッチを入れた。
と思った瞬間、後ろから突き飛ばされた。あっと声を出すヒマもなく、玄関ポーチを一、二歩踏み込んで倒れそうになった。なんとか踏みとどまり、壁に手をついて顔を後ろに巡らすと、先ほどの帽子の男が目の前にいる。男は後ろ手にドアを閉めた。何か言おうと思うN代さんの目の前に光るものが突き出された。包丁のように大きいが、弓なりに反ったようなシェイプでギザギザがあるナイフだ。
目を見開いて体が硬直したままでいると、男がナイフを振って室内へと促した。土足で上がるのはイヤなのでなんとか靴を片方づつ脱いで、後ろ向きに部屋に入った。ダイニングキッチンに入ると男は右手のナイフでN代さんのバッグを指して、左手でそれをよこせと身振りでしめした。
月末の金曜日で売り上げがいつもより多かった。少ない日の倍はある。バッグを出すのを躊躇していると、男がナイフを大きく振った。玄関の明かりで薄明るいダイニングキッチンの中でナイフの刃が思いのほか光った。ガクガクと首を振りながらバッグを差し出した。男はバッグをテーブルの上に置き、右手でナイフをもってN代さんに向けたまま、左手で器用にバッグの口を開けた。
絞り鹿子の巾着袋に売り上げを入れてあるが、それがお金であることはすぐにわかる。男はそれをいったんテーブルの上に出して、またバッグを探った。札入れの中から数万円の現金も出した。巾着袋と現金をガシッとつかむとジャンパーの内側に押し込んだ。手の色がやけに白いなとN代さんはぼんやりと思っていたが、男は軍手をしていた。