パルミラの物語1. 隊商都市パルミラの発展
アラブ城砦と列柱。パルミラの列柱はたび重なる地震に耐え、1,800年以上もの間立ち続けて人類の営みを見守ってきた ©牧哲雄
西アジアのこの辺りは岩石や礫からなるシリア砂漠が広がる乾燥地帯だ。商人にとって砂漠を縦断するこの商業ルートは生死を賭けた危険な旅。ヤシの林が広がり水が湧き出すパルミラのオアシスは、ヨーロッパとアラブ、ペルシア、インドを結ぶ要衝のひとつとして発展をはじめる。
観光用のラクダ。誰が教えたのか、日本人を見かけるたびに「ラクダは楽だ」のかけ声が ©牧哲雄
このパルミラが繁栄をはじめるのはヘレニズム文化が花開くアレクサンドロス(アレキサンダー)大王のマケドニア以降。紀元前1世紀、ローマ帝国が勢力を伸ばしてパルミラを属州とすると、ローマの庇護を受けてシルクロードを中継する都市国家として急速に発達した。
砂漠を守る神々を祀った神殿や、豊富な水を使った浴場、円形劇場で上映された演劇は、死の砂漠を行く商人たちに愛されて、特にペトラ(ヨルダンの世界遺産)が衰えると西アジア交易の中心地として栄華を極めた。
パルミラの物語2. 美女ゼノビアとパルミラの滅亡
列柱つき大通りの入り口にあるローマ記念門。パルミラには水道管もあり、高度な水利システムが砂漠の都市を支えた ©牧哲雄
260年、パルティアを滅ぼしたササン朝のシャプール1世がエデッサの戦いでローマを破ると、西アジアにおけるローマの支配は混乱。パルミラはローマの最前線としてササン朝と果敢に戦うが、267年に首長オダイナトゥスが暗殺されるとその妻ゼノビアが幼い息子ウアヴァラトゥスを立てて指揮を執り、機を見てローマからの独立を図る。
砂漠に広がる廃墟とバール・シャミン神殿 ©牧哲雄
ゼノビアはクレオパトラの末裔を宣言し、実際クレオパトラに迫るほど美しかったという。戦士として、また他国語を操る政治家としても優秀だったゼノビアは、やがて息子に皇帝を意味する「アウグストゥス」を名乗らせると、自分は皇帝の妃を意味する「アウグスタ」を称し、ローマと明確に対立するようになる。
これに対してローマ帝国のアウレリアヌス帝はパルミラ遠征に乗り出し、272年、ついに陥落。ゼノビアは捕えられ、金の鎖につながれてローマに連れ去られたという。パルミラの街は破壊され、砂漠に埋まり、その歴史を閉じることになる。