事件現場近くを歩く!

さて、歌舞伎の「忠臣蔵」は随分史実とは異なりますが、実際に事件があったことは紛れもない事実。そんな事件現場「吉良邸」付近を実際に歩いてみましょう。ほんの1時間もあれば十分なコースです。

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「吉良邸」のはっぴが粋!

例年、吉良祭・元禄市当日は、ボランティアガイドによる両国の忠臣蔵ゆかりの地 をめぐるツアーが組まれます。ガイドもさっそく参加しました。

吉良邸のはっぴを着込んでいるスタッフが、たのしく案内をしてくれました。

忠臣蔵ゆかりの地を巡るツアーは、討ち入り前後しかやっていませんが、墨田区観光協会では、その近くをめぐるツアーを豊富に用意してありますので、ぜひ利用してみてください。英語の案内もあります。

 

義士の息遣いも聴こえてくるよう

【本所松坂町跡の石碑】
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昭和4年に町名変更の折、旧町名を惜しむ人々が建立

両国駅南口からまずは本所松坂町の石碑を通ります。討ち入り後に吉良邸が武家地から町人地に変わったときに「松坂町」と名付けられました(現在の町名は東両国)。ちなみに「町」というのは「町人が住む所」という意味だそうです!

 
【回向院】
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墨田随一のパワースポットだとか

四十七士たちは、討ち入り後浅野家の墓がある泉岳寺まで歩きました(約12キロ)。その前に休息を取ろうと門を叩いたのがこの回向院。追っ手の上杉家がせめて来るかもしれず、ここで待とうとしたという説もあります。しかし、「明六つ」(午前6時)前の出入りを禁ずる法を口実に、開門をしてもらえませんでした。関わりを嫌がったのかもしれません。

 
【大高源五の句碑】
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大高源五の句碑

「日の恩や たちまちくだく厚氷」という句碑が両国橋東詰にあります。「おかげさまで、長年の恨みも氷が溶けるようにとけました」という意味です。

詠んだのは義士のひとり大高源五。俳諧にもすぐれた才能を発揮し、宝井其角とも交流があったと伝えられています。討ち入りのあと、近くの酒屋に飛び込み「死骸の始末をしてくれる方々への酒代」として金2両を与え、この句を詠んだそうです。吉良邸の隣家に「通報もせず見守ってくれた」と謝辞の意味で送ったとの話もあります。この隣家とのやりとりの話が歌舞伎では「松浦の太鼓」になっています。文武両道な大高源五でありましたが、風貌は「いもづらで猪首(あばたヅラで首が短い)」とのこと。イケメンではなかったようです。

 

【旧両国橋】
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ここで休息したのち、泉岳寺へ

回向院に入ることを断られた一行が休息場所&上杉家からの追っ手を迎え撃つ場所として選んだのがここ。両国橋東詰めの広場です。

無事討ち入りを果たし、泉岳寺へ向かう前のしばしの休息を取る義士たちの気持ちはいかばかりだったでしょうか。路地とは違い少しだだっ広くなっているところなので、ここに47人集まっていたのかと思うと、息遣いも伝わってくるようです。妙に落ち着いた義士もいたでしょうか、ハイテンションな若者もいたかもしれません。

今は駐車場と広めの道路で、人通りも少ないようです。

 

【討ち入りそば跡】
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討ち入りそば跡

討ち入り前に集合して腹ごしらえに「そば切り」を食べたと伝えられているところです。

でも、とても小さい敷地で47人は集まれそうもありませんね。実際のところは、目立たないように数人ずつ分かれて集合。ここでは吉田忠左衛門親子・原惣右衛門など数人が「そば切り」を食べたそうです。

 
【前原伊助宅跡】
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ボランティアガイドさんが錦絵を見せながら解説

前原伊助は、吉良邸の探索を主に担当していました。当初吉良邸近くに古着屋を構え偵察をし、吉良家が屋敷替えで本所にうつると、吉良邸のすぐ裏手(それがここです)に「米屋五平兵衛」という名前で呉服店を構え、邸内の情報を探ります。行商も行って情報を得る一方、「安売り五兵衛」と呼ばれ繁盛していたとのことですから、如才無いですね。神崎与五郎も「小豆屋善兵衛」として同居していたそうです。

 

>>次のページでは、吉良祭・元禄市の様子をレポートします