人は見た目

「わぁ…あの赤い顔したヤツ、いかにも悪そうだな」
あかいかおはあくにん?

赤い顔は悪人?


歌舞伎を見る上で、この感覚は非常に大切で、しかも大抵の場合、その直感は正しいです。現代演劇では多くの場合、一人の人間の中に多くの要素が潜んでいて、それらが複雑に絡まっている様子をリアルに描こうとします。善人に見えた人間が、笑顔のまま悪事を働くなどというのは、かえって当たり前すぎるくらいです。しかし、歌舞伎という芝居は、そうした現代的なリアリズムとは異なる人間の描き方をします。

歌舞伎では人間の外見に、その役の性根が現れていると考えます。そして、同じ人物でも悪人から善人、善人から悪人に気持ちを入れ替えるような場合は、何らかの形で外見に変化があらわれるようになっています。

極端な場合は、殆ど別人かと思うほどの変化をする演目もあります。たとえば「鳴神」という芝居では高僧の鳴神上人が怒りに燃えて雷の化身となりますが、顔には隈取、衣装も白から雷模様の派手なものになり大暴れします。

比較的リアルな世話物の芝居でも、髪型に変化が現れたり、衣装を肩脱ぎにするなど、小さくても変化がおきます。見た目が全く同じまま異なる性格を表すケースはほとんど見ることがありません。悪そうな人物はほぼ100%悪者であり、正義の味方に見えるものはほぼ間違いなく正義の味方なのです。

「外見が変わる→性格が変わる」とは限りませんが「性格が変わる→外見が変わる」はほぼ確実に成り立ちます。


役柄の効能

しかし、これは「歌舞伎の単純さ」の象徴ではありません。むしろ演劇として高度な「典型化」の手法なのだと、私は考えます。
役柄の例

 

コミュニケーションにおいて、言語が持つ影響力はわずかに7%だという説があるそうです。言葉そのものの意味以上に、その時の抑揚、声の大きさ、話す速度、身振り手振り、話している時の表情……。そうした多くの視覚や聴覚から入ってくる要素によって、人はコミュニケーションをしている、と。歌舞伎は視覚情報に多くのことを語らせることで、余計なセリフや説明を省くことに成功しているように思えます。
  • 歌舞伎の登場人物たちはたいてい、人間の中の特定のエッセンスを濃縮したような人物ばかりです。個々の人物の個性を際立たせることで、むしろテーマはストレートに伝わりやすくなり、舞台の限られた時間を有効に使うことができます。
     
  • 江戸時代には弁当を食べながら、酒を飲みながら、という注意力散漫な観客がたくさんいたようです。そんな見方をしていても、物語が掴みやすいという効果もあったでしょう。
     
  • さらに外見の特徴のおかげで小さな子供でも悪人と善人は容易に区別することが可能です。
     
  • 少し目をそらしていても、舞台に目を戻した時、外見に変化が表れていれば、なんらか性格の変化があったのかもしれないと推測もできます。
つまり、ちょっとくらいよそ見していようが、セリフの意味が良く分からない子供だろうが、それぞれに物語に乗り遅れることなく、芝居を楽しめたわけです。

一瞬の油断も許さない緊密な構成を持った芝居の面白さは、もちろん私もわかっているつもりです。しかし一方で、あらゆる階層・年齢の人々が、それぞれの楽しみ方ができる歌舞伎の懐の深さには、やはり驚いてしまうのです。

いまのようにエンターテイメントの種類が無数にあり、大人と子供の娯楽が棲み分けされている時代ではありません。歌舞伎は、今でいえば「ターゲットユーザーは子供からお年寄りまで」という、マーケティングの原則に照らせばとんでもないことを実現していたのかもしれません。


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