女形は女優の代わりとなる存在

げんじだな

源氏店

「そもそも、なんで男の人が女役をやってるの?」

実は歴史的には、風紀の乱れを理由に女性が舞台に上がることが禁じられたのがスタート地点です。次いで前髪の少年についても同様に舞台に上がることが禁止され、そのころから歌舞伎は現在の芝居としての体裁を整えてきたようです。つまり、初期の歌舞伎においては、女形は女優の代わりになることが求められたのです。たとえば初期の女形の名優と言われた初代・芳沢あやめは「日常から女性として暮らしていなければ上手な女形とは言ってもらえない」という芸談を残しています。

けれど、それらが長い時間の流れの中で、必然的な存在になり、いまや到底女優さんでは肩代わりできない、必要不可欠な要素にまで発展してきました。

女形は舞台上だけの「まぼろしの女」

優れた女形を見れば一目瞭然ですが、女形は決してリアルな「女性」をそのまま写しているわけではありません。

女形は「女性」というものを客観視して、そのエッセンスと思われる部分を取り出して拡大化して見せる「技術」だと言えます。身のこなし、歩き方、言葉遣い、そして物語の中における性格付け。あらゆる点について「女らしさ」を表現するための技術が洗練され、注ぎ込まれてきたのです。

そうして築き上げられた「女」は舞台の上にしかいない「まぼろしの女」です。だからこそ、それは不思議な魅力を伴って、私たちの心とらえて離しません。
また、忘れられがちですが、歌舞伎では、そこに登場する男たちも多くの場合、そのままリアルな男性ではなく、やはり極端に誇張された表現である場合が多く見られます。これは男性が演じる女形の不自然さを感じさせないための工夫でもあったでしょう。つまり、歌舞伎に登場するのはどちらも「まぼろしの男」と「まぼろしの女」だとも言えます。そうして舞台の上に作られたのは「架空の国」で、決して「現実」とイコールではありませんが、人の心を楽しませ、慰める「リアリティ」を私たちに提供してくれます。

これは現代でいうと、ディズニーランドの発想と比較できるかもしれません。「虚構」を支えるための、緻密で細部にまで行き届いた「世界の設定」、それを支える厳重な「管理システム」と「技術」。それによって、私たちは「夢の国」でのひと時を、現実を忘れて心行くまで楽しむことができます。そして、キャラクターたちは架空の世界の住人だからこそ夢があるのであって、本物の動物などで代用できるものではありません。
 

歌舞伎役者にはなぜそんなことができるの?

むすめどうじょうじ

娘道成寺

実は、これまでに一度だけ、女優さんでも「歌舞伎の女」を演じることが出来るかもしれないと感じたことがあります。とある女優さん(仮にAさんとします)が演じる姿を見たときのことです。

その方の演じる女は他の女優さんたちとは明らかに違っていました。ほとんどの女優さんが「自らが女性である」ことを当たり前に演じており、「素の生々しさ」が出てしまっていたのです。しかしAさんは、舞台の上にだけ生きる「まぼろしの女」になっていました。

Aさんは宝塚歌劇で長らく男役のトップスターでした。宝塚のトップは必ず男役です。つまり、自分と異なる性を演じるために、役を自分から切り離し、男性の中の魅力的なエッセンスを取り出して、自分なりの技術で再構築しなければ男を演じることは出来なかったでしょう。

おそらくAさんはその経験を活かしていたのです。「女」を演じる時も「自分が女である」ことすら切り離して、新しく「芝居の中の女」を作り上げたのでしょう。女優さんが「歌舞伎の女」を演じることが出来るかもしれないと考えたのは、そのためです。

そう考えれば、あらゆる役柄に自覚的に取り組まなければならない女形と女優は、演技の方法論が全く違うということが分かります。彼らはみな、一つの役に取り組むときに、自らの性別さえも一度は忘れて役に取り組んでいるのですから。

女優さんに可能性がないわけではありませんが、自らの性別さえも切り離す、という作業はなかなか困難でしょう。そう考えて、改めて歌舞伎を見ると、女形さんたちの身体に宿るたくさんの工夫と技術が見えてくるかもしれません


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