「型」とはなにか

いがみのごんた

いがみの権太

歌舞伎には「型」と呼ばれるものが厳然と存在しています。これは代々の役者さんたちが時間を掛けて洗練させてきた工夫であり、知恵だと言えます。ひとによっては、このために歌舞伎を「型通りの演技」として、自由に演技を組み立てる現代的な演劇に比べて劣っているかのように言うこともあるようです。「型をなぞるだけだから進歩がない」「守ることばかりに意識が向かい、挑戦精神が失われている」「すでに型が新しいエネルギーを失っており、現代の観客には通用しない」などなど。しかし、果たしてそうでしょうか。

そもそも「型」とは、演出者のいない歌舞伎(厳密に言えば座頭やその演目の主役を務める役者が演出者ですが)では「型」が演出の役割を果たしています。初演の際の作者も役者もすでに江戸の彼方に去ってしまったひとたちです。そうした状況の中で、もっとも信頼に足る演出者こそ、代々の役者を通じて残され、磨かれて来た「型」だと言えるかもしれません。


大切なポイントは

確かに、型には落とし穴はあるでしょう。それは型をなぞれば、それなりに芝居に見えてしまうということです。「型」は先人たちが工夫に工夫を重ねて、その役の性格や心根(歌舞伎では総称して“性根”と呼んでいます)をどのように表現し、演じるかを追求してきたもので、「型」と呼ばれるところまで昇華してきたのだから当然とも言えます。

ですから、もし演じる役者がそこで踏みとどまってしまったなら、確かに「型」は歌舞伎を硬直させ、いずれ身動きの取れないものにしてしまうかもしれません。

けれど、それは表面だけを捉えた批判でしかありません。舞台を見ていれば一目瞭然です。優れた役者が演じる舞台では、同じ「型」でも芝居の発するエネルギーがまったく違います。同じことをしていても大きな感動があり、新しい発見に満ちたスリリングな体験が生み出されます。「型」を生かすも殺すも役者次第なのです。


型が生き生きとする瞬間

きつねただのぶ

狐忠信

作品を深く読み込み、自らのものとして消化し、「型」に込められた役の性根を掴み、自らの血肉と化すことのできた役者の舞台は、これが同じ芝居かと目を疑うほどです。しかも、それは「型」でありながら「型」を超え、その役者以外の誰にも演じることの出来ない財産になっていくのです。にわかには信じられないかもしれませんが、全く同じ芝居を、同じ型で演じていてもまるで違う感動が生まれる瞬間を何度も味わってきました。

役者は「型」を守ることからスタートしますが、最後には「型」を乗り越えていくものなのです。そこに「型」というものの意味も意義もあるのでしょう。

書道の世界にたとえると、楷書の先に草書があるように。絵画の世界でいえば、たしかなデッサン力の先に抽象画があるように。ビジネスでも、先輩達のノウハウの先に、自分ならではのやり方が生まれるように。

「型」とは、「型」を意識せずとも自然に「型」になっているところまで行き着いて初めて生命が吹き込まれるものだと思われます。「古くさい型だ」などという言葉を口にしていいのは、血のにじむような努力をした者のみのようにも思われるのです。そして、それを乗り越えた先にこそ新しい「型」が生まれていくはずだ、と。


型は絶対か

ちゅうのりのただのぶ

宙乗りの忠信

もちろん、伝えられてきた「型」を検証していく作業は必要でしょう。たとえば歌舞伎を「物語」という視点で見つめなおし新しい発見に成功してきたコクーン歌舞伎などは好例です。しかし、これは「型」をとことん身体に叩き込んでいた故・勘三郎さんが中心にいたからこそ意義があるのではないでしょうか。

また当代では、片岡仁左衛門さんが伝わってきた型を消化したその先を見せてくれています。従来の型に自分ならではの工夫をする。それは独り勝手なものではく、より芝居を生かすための工夫であり、さらに「型」を面白く見せてくれている点で、本当にすばらしいものです。


おわりに

勘三郎さんがことあるごとに紹介していた話を最後にしてこのお話を終わりにしましょう。


むかし、ラジオの「こども電話相談室」を聴いていたら、ある子供の質問で「型破りと形無しの違いを教えてください」というのがあったそうです。そこでの無着成恭(むちゃくせいきょう)さんの回答がすばらしかった。

「そりゃあんた、型がある人間が型を破ると『型破り』、型がない人間が型を破ったら『形無し』ですよ。」


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