義太夫の語りは古典世界の「ラップミュージック」

「歌舞伎は難しい」というハードルになっている代表的なものが、義太夫狂言と呼ばれる、文楽を元にした芝居です。舞台上手(向かって右側)で語られる竹本と呼ばれる義太夫を語る太夫さんが何を言っているか分からない、というのが一番の壁です。
ちゅうしんぐらundefinedよだんめ

忠臣蔵 四段目

たしかに、義太夫というのは、聞きなれない人にとっては非常に聴き取りが難しいものです。それは認めざるを得ない。その一番の原因は言葉の区切り方、伸ばし方が、いま私たちが使う日常の言葉とかけはなれているからでしょう。

しかも義太夫のテンポだと、音と音の間が長すぎて一つの言葉としてつながりづらいことも多く、しかも言葉は現代日本語ではありません。普通の速度で耳に届けば理解できる程度の言葉なんですが……。

若い方には、古典の世界の「ラップミュージック」「ヒップホップ」だと思って頂くと、スッキリするかもしれません。独特のリズムに合わせて言葉を紡いでいく手法は、実にソックリです。

さて、この様式に乗った言葉たち。分かるようになるには、少し時間が必要です。しかし悲観するには及びません。分からなければ、分からないまま見てしまえばいいんです。実に乱暴な物言いですが、私も子供の頃、義太夫が何を言っているのかなんてさっぱり分かりませんでしたが、芝居は十分に楽しんでいました。

なぜなら、歌舞伎の義太夫は、簡単に言うと「小説の地の文」に当たる場合が圧倒的に多いんです。役の心理を説明したり、そのときの状況を描写して、役者はそれに合わせて、その情景や心持に沿った芝居をします。つまり、役者を見ていれば、その場の心理や状況は、克明ではないにせよ、殆ど理解できるんです。

もともと、富裕な知識階級から、長屋住まいのクマさん、はっつぁんまでが楽しめるための娯楽であった歌舞伎は「分かる人」には更に深い楽しみを、酔って良い機嫌になってるひとにも十分楽しめるものを提供してきた芸能です。はじめから全部を理解する必要なんてない、というのが歌舞伎のいいところです。

見ているうちに義太夫が耳に馴染んできて「あぁ、ここではこう語ってたんだぁ」というのは自然に分かってきます。「何を言ってるのかよく分からなかったけど泣けたなぁ」ということだってあります(笑)

まずは気楽に座席について「分からなくて当たり前」、と肩から力を抜いて楽しめば「あれ、思ったより分かりやすいじゃないか」と感じるはずです。そして義太夫狂言の豊かなドラマ性にも驚かされるに違いありません。


糸に乗る

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義経千本桜 碇知盛

義太夫狂言を見ていると、突然、主人公が真正面を向いて竹本の語りに合わせて動き出したり、歌うような科白を言い出したりします。総称してこれらを「糸に乗る」と言いますが、これが歌舞伎を見たことのない人には奇異に見えるようです。

しかし、これは実にシンプルなことで、ミュージカルやオペラのファンには、それほど違和感なく理解できるのではないでしょうか。また、前回の記事で述べた世話物における日常と非日常を思い浮かべていただいてもいいでしょう。

つまり、義太夫狂言において義太夫に合わせて役者が芝居をするのは役柄の気持ちが高まって、そのピークを迎えるような場面において、なんです。特に「物語」「クドキ」と呼ばれる場面は役者と義太夫の相乗効果が大きな見せ場になっています。

「物語」は、たいていの場合、過去に起きた事件を、身振り手振りを交えて、文字通り「物語」として、相手に伝える場面で「しかたばなし」と言われることもあります。普通なら「こうこうでした」と言えばすむことですが、過去を目の前で再現するところが役者の腕の見せ所になります。

また「クドキ」は多くの場合、女性が嘆き悲しんだり、恋する男に心情を吐露する場面で演じられまする。普通に嘆き悲しんで見せる以上に、義太夫に合わせて演じることで、激しい気持ちが表現されるのです。

これが更に極端になったのが「人形振り」と呼ばれるもので、これは黒衣の後見が後ろについて、まるで役者は人形そのものになったような動きをします。科白のパートも義太夫が語ります。日常から非日常へ飛躍したことを肉体の上で表現する、歌舞伎独特の演出です。もちろん、役者が人形になりきって肉体の動きの面白さを見せるという側面もありますが、それが目的ではないのです。

こういう場面になったら「あぁ、いまこの人物は感極まってるんだなぁ」と、少し集中力を高めるといいかもしれません。


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