歌舞伎の舞台といえばどなたもご存知なのが「花道」ではないでしょうか。舞台下手(しもて・舞台に向かって左側)から伸びる廊下のような通り道。あの花道のすぐソバでご贔屓の役者の一挙手一投足を眺めるのは、間違いなく観劇の醍醐味のひとつです。

舞台を正面から観ていたときの印象とは異なり、役者の息遣い、声の調子、汗に交じり合う隈取、全身の緊張感を真近で感じ取ることができ「生きてて良かった!」と、興奮を味わえます。背景は観客。観客の間からすっくと姿を見せる役者。現代と江戸の人間が入り混じる不思議な瞬間でもあります。

「男の花道」とか「引退の花道を飾る」などと使われることが多く、昨今、森首相の辞任に関連する話題で使われることも多いようです。元は歌舞伎の舞台機構。「舞台に向かって左手の位置に、舞台と同じ高さで客席をまっすぐ貫いて延びている通路。原則として、舞台で起こる事件に重要なかかわりを持つ人物の登場、退場に用いる」と『歌舞伎事典』(平凡社)にはあります。

「花道」という用語が端的で分かりやすくイメージも膨らむいい名前ですが、いろいろな説があるようです。「花の役者の通り道」「役者が着飾って出てくる道」(いずれも『歌舞伎事典』より)という説が妥当とされています。

この道を通るのは人間とは限りません。花道の、揚幕(あげまく・役者が登退場する口)から七分、舞台から三分のところに「スッポン」という出入り口が設けられており、ここから出入りするのは亡霊や獣、妖術を使う者などに限られています。つまり普通の人間に見える成りでも、そこから出てきた者は普通の人間ではないことを表しています。

さらに、役によって、演目によって、花道の「意味」は変ってきます。どこへ通じる道かも変ってきます。

「勧進帳(かんじんちょう)」では、陸奥へ無事逃げおおせたい義経一行が山伏姿に身を包み「安宅の関(あたかのせき)」を突破する算段と決意を、ここでします。「仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)」の「道行(みちゆき)」ではお軽と勘平がお軽の故郷へと急ぎ、「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」では武部源蔵(たけべげんぞう)が主筋の子供殺しの命を受けたその帰途を意味し、「熊谷陣屋」の熊谷直実はなんと実の息子を手にかけた後、陣屋への帰途を示しているのです。

そんなそれぞれの「人生」を抱えた人物が通っていく様を、彼らと同じ思いを共有しつつ、揚幕へ引っ込むまで見守る、見送る。劇的効果を盛り上げる世界に類のない舞台機構です。

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