子どもの「思春期」に、親が迎えるのが「思秋期」
「思秋期」の親に似ているのは誰?
子どもが思春期に入ると、親に何かと反発し、批判的な言葉を口にするようになります。すると、親は苛立ちを抑えきれず、つい「生意気言うな!」「誰のおかげで生活できると思ってるの?」といった感情的な言葉をかけてしまい、険悪ムードになることがしばしば・・・・・・。「思春期の生意気さも成長の一プロセス」と頭では分かっているのに、どうして感情を抑えられなくなってしまうのでしょう? その謎を解く言葉に、「思秋期」というキーワードがあります。思春期の子を育てる親の年齢は、大方が40代。この年代は、「人生の秋」を思う時期という意味で「思秋期」と呼ばれる時期にあたります。失った若さにちょっぴり未練を覚えながらも、老年期への準備を考えるにはまだ早いと感じるのが、思秋期の大人たち。そんな宙ぶらりんな自分に、モヤモヤ感を抱えやすい年代なのです。
ところで、このどっちつかずで定まらない感じ、誰かに似ていると感じませんか? そうです。「子ども」とは認めたくないけど、「大人」にもなりきれない思春期の子どもたちと、そっくりではありませんか! 思春期の子と思秋期の親は、お互いに中途半端な自分にモヤモヤしやすい時期だからこそ、感情的にぶつかりあってしまうのです。
せつない思秋期 VS 無理解な思春期
若さへの喪失感にせつなさが募る思秋期
「このくらいのことがなぜしんどいのか」とわが身のふがいなさにため息をつく一方で、同じことを難なくこなせる若さへのジェラシーをふと感じてしまう。頭では大人げないことと分かっていながらも、エネルギッシュな若さしか知らないわが子から、「休日に寝てばかりいる人に、あれこれ言われたくないんですけど!」などと無理解な一言を掛けられてしまうと、無性に腹が立ち、つい衝突してしまうのでしょう。
分別臭い思秋期 VS 青臭い思春期
思春期ゆえの理想論は、思秋期の大人には「世間知らずの浅知恵」にしか思えない
ところが、思春期の子にとって、そんな思秋期の親が言う説教など、「古くさい繰り言」にしか聞こえないものです。堅実さは大人にこそ共感を呼ぶ価値観ですが、人生の難局を知らない思春期の子にとっては、何の魅力もない「妥協」にしか感じられないからです。
こうして親の教えや生き方を批判し、青臭い理想論を語る思春期の子の言葉に、思秋期の大人は苛立ちが募る一方・・・・・・。そして、「おまえに何ができる」「理想だけじゃ食っていけないぞ」などと、嫌味まじりの一言を加えてしまうのではないかと思います。
正反対なベクトルを生きる思春期と思秋期
親子はもう、別のベクトルに向けて歩き始めている
つまり、思春期の子と思秋期の親は、宙ぶらりんで不安定な状態こそ共通しているものの、「心のベクトル」は正反対なのです。だからこそ、お互いに感情的になりやすく、思春期の子は親を否定したくなり、思秋期の親は子どもに小言を言いたくなってしまう。この理解のずれと噛み合わなさは、如何ともしがたいものです。
しかし、むしろそれを受け入れてお互いに少し距離を置き、それぞれの人生を尊重することが必要なのではないかと思います。
「青春」と「人生の秋」―それぞれの人生を歩む親子
そろそろ、思秋期の人生課題に向き合う時期ではありませんか?
思春期の子どもが自分の人生課題に向き合い始めたように、思秋期の親にも向き合うべき人生課題があります。子離れと共に重要度が増す「夫婦関係」の再構築、年老いていく親との関係、後半生へ向けてのライフプランや資金計画など、取り組むべき問題は山ほどです。子離れによって手に入れた時間こそ、こうしたテーマへの取り組みに適した時間です。
もちろん、子離れをしたといっても、親の役割が必要なくなる訳ではありません。未成年を保護する親としての養育責任は続きますし、「やけど」では済まされない危険を感じたときには、すぐに手を差し伸べる必要もあります。とはいえ、思春期の子が「青春」に向けて歩き始めたときは、思秋期の親も「人生の秋」への歩みを進めていくタイミングです。別々のベクトルに向かうお互いを尊重しながら、一つ屋根の下で共に生きていく――こうしたゆるやかな親子関係の再構築ができるのも、信頼関係でつながった親子だからこそではないかと思います。