ビガンを救った日本人・高橋大尉の物語
一見普通の石造コロニアル建築だが、屋根や窓や内部に木がふんだんに使われている。アジア、アフリカ、中南米でも石と木の混合はよく見られるが、それぞれ特有の味わいを持っている
1641年に建設され、1658年に司教座(カテドラ)が持ち込まれて大聖堂(カテドラル)となった聖ポール大聖堂
戦争中、フィリピン人たちはアメリカの支援を得てゲリラ部隊を編成し、抗日運動を展開する。これに対して日本は親日政権を建てたりもするのだが、大きな支持を得ることはできなかった。経済的にも次第に疲弊し、終戦前には日本の本土と同様、フィリピン経済は悲惨な状態にあった。
1945年、アメリカ軍がルソン島に上陸してマニラを奪還。マニラは空爆により廃墟となった。もはや敵の侵入を防ぐ戦力すら失った日本軍は、各地の司令官に諸都市を破壊して山中に撤退し、ゲリラ戦を展開するよう命令する。
建物の色・デザインをうまく利用してブティックに仕上げている
敗戦が色濃くなった1945年、大尉はビガンの破壊と住民殺害の命を受ける。日本かビガンか、祖国か家族か? 選択を迫られた大尉は家族をビガンのドイツ人神父に託し、破壊も虐殺もすることなく山中に入って死を決意する。
日本軍撤退後、ビガンに迫ったアメリカ軍は他の街同様、街への爆撃を準備していたが、人々は白旗を掲げて日本軍が去ったことを伝えて攻撃中止を嘆願。アメリカ軍がこれを受け入れたため、ビガンは破壊から免れた。高橋大尉の部隊は山中で全滅したと伝えられている。
なお、この物語は2009年にボナ・ファハルド監督、高嶋宏行主演『Iliw(イリウ)』として映画化されている。
ビガンの見所と世界遺産ベスト・プラクティス
当時の建物をそのまま利用したアンティーク・ショップ。写真右の柱を見ると、レンガと漆喰でできているのがわかる
カスピという貝殻をガラス代わりにはめ込んだ格子窓
ブルゴス国立博物館~サルセド広場~聖ポール大聖堂~ブルゴス広場~クリソロゴ通り~クリソロゴ通りと並行した通りをいくつか~クリソロゴ博物館と見て回れば、世界遺産「古都ビガン」はほぼ見て回ることができる。クリソロゴ通り周辺にはホテルもたくさんあるので世界遺産の中に泊まることも可能だ。
世界遺産に登録される以前、ビガンの建物は多くが個人所有で公開されている建物もほとんどなかった。しかし1970年代から保護活動が進み、大統領令や条例によって建物の無秩序な改築が禁じられ、修復する際にも当時の素材・技術を用いて行われるよう指導された。
ブルゴス広場に立つホセ・ブルゴスの像。先住民に対する迫害に反対して斬首刑に処せられた
こうした保護活動は世界遺産登録地外にも及んだ。ビガンの名物である陶器=ブルナイ、手織布=アベル・イロコといった伝統工芸品が再興され、民族衣装や民族舞踊も復活した。現在ではこうした工房を見学するツアーが催行され、土産物屋にはさまざまな工芸品が並んでいる。
2012年、世界遺産条約40周年を記念した式典において、ビガンは街をあげての保護活動が評価され、世界遺産管理における最高のモデルであるとしてベスト・プラクティスを受賞している。
スペイン人が開拓し、さまざまな文化が凝縮した多文化融合都市ビガン。街を命懸けで守った高橋大尉、イロカノ人を迫害から守って殉職したホセ・ブルゴス神父、こうした偉人たちの意志は現在に引き継がれ、いまも街を守り続けている。