フランシスが恋した男たち
幼少期のフランシスは、しばしば母親の服を身に着けたり化粧をしたりしていたそうです。父親に家を追い出されたのも、その現場を見られて父親がカッとなったからだと言われています。早くから同性愛に目覚め、そのことを周囲に隠しませんでした。フランシスには、生涯にわたってたくさんの恋人がいました。
20歳のとき(1929年)、フランシスはバスハウス(ゲイサウナ)の電話交換手のバイトをしていて、エリック・ホールに会いました。彼は裕福な美術収集家で、フランシスのパトロンとなり、いっしょにモンテカルロに旅行に行ったり、フランシスのために展覧会を開いたりしました(そのために妻子を捨てたといいます)。1949年、二人の恋愛関係は終わりを迎えましたが、よき友人であり続けました。
43歳のとき(1952年)、フランシスは元空軍のパイロットであるピーター・レイシーと恋に落ちました。二人はよくモロッコのタンジェリンに旅行しました。ピーターはドSで(フランシスは真性のMでした)、時に暴力的になり、芸術家の作品を破り、酔っぱらったフランシスを叩き起こしたり、通りに放置したりしました(殺し合いになりそうなこともあったといいます)。が、フランシスはピーターを本当に愛していたようです(ベーコンと親しかった歴史家のマーティン・ハリソンは、真の恋人はピーターだったと語っています)。しかし、1962年、栄誉あるテート・ギャラリーでの大回顧展の前夜、フランシスのもとに、ピーターがタンジェリンで泥酔して亡くなったという知らせが入ったのでした…。
55歳のとき(1964年)、フランシスはジョージ・ダイアーと出会います。恋人として最も有名になり、作品にもたくさん描かれてる人です。ある夜、アトリエに天井から男が落ちてきます。それは家に盗みに入った泥棒だったのですが、男の姿を一目見て気に入ったフランシスは、警察に突き出す代わりに「ベッドにおいで、欲しいものは何でもあげる」と誘い、その日から二人は恋人どうしになります。無口で無教養だったジョージは、美術評論家・写真家・モデルたちが皮肉や毒舌を交わし合うサロンにどうしてもなじめず、やがてフランシスにも冷たくされるようになり、次第に精神が追い詰められていき、ドラッグとアルコールに溺れるようになります。
そして、ベーコンがパリのグラン・パレで生涯最高の栄光に浴しているまさにその時、ホテルで睡眠薬を大量に飲んで亡くなるのです。ジョージの自殺は、フランシスにとって二度目の恋人の死(しかもより悲劇的な)でした……彼はきっと自身の運命を呪い、途轍もなく打ちひしがれたことでしょう。彼はジョージの死後も、追悼するかのような作品を描きつづけています。代表的なものが「Triptych - In memory of George Dyer (1971)」です(二人の関係は映画『愛の悪魔』で鮮やかに描かれています。フランシス・ベーコンのドキュメンタリー映画では、ジョージ・ダイアーの映像を見ることもできます。ちなみに、あの村上隆さんもフランシスとジョージにオマージュを捧げる作品を制作しています)
65歳のとき(1974年)、フランシスはジョン・エドワーズという青年に会いました。「エドワーズは天性のかわいらしさとあたたかな心情の持ち主で、ベーコンを尊敬していた」とマーティン・ハリソンは語っています。「しかし、彼は無意味には堪えられなかった。ベーコンが毒舌を発しはじめると彼は『消えるよ』と言って立ち去った。そこがダイアーと違うところだった」。ちなみに、ジョン・エドワーズにはもともと長いつきあいのパートナーがいたそうです。
79歳のとき(1988年)、フランシスはスペインのハンサムな青年、ホセ・カペッロに出会い、夢中になりました。83歳のとき(1992年)、医師に止められたにも関わらず、フランシスはホセに会うためにマドリッドに出かけて行き、そこで急激に体調を崩し、亡くなりました。
ベーコンは遺言で実の子同然に面倒を見ていたジョン・エドワーズに遺産を託していました。が、正統な遺産相続人であるジョン・エドワーズを差し置いて、ギャラリーが作品を持って行こうとしました(ジョンは「労働者ふぜいが」とナメられていたのです)。そこでアート界のゲイの方たちが団結し、裁判を起こしてベーコンの絵を(ジョンを)守ったんだそうです。
(参照:日経新聞「『フランシス・ベーコン展』技法と人物像から探るベーコン絵画の秘密」、The Sydney Morning Herald「Dark night of the soul」、ART GALLEERY NSW「More about Bacon」、『芸術新潮』2013年4月号)